こんばんは、太陽の塔
マーニー・ジョレンビー(2023)
文藝春秋
要約
陶芸家を志していたカティアは、恋仲にもあった師匠と決別し逃げるように大阪へ外国人教師としてやってくる。陶芸家志望が急に教師になれるはずもなく、加えて外国人であるために周囲との間にできる見えない壁、それ以前に人としての尊厳を踏みにじるかのような不審者との遭遇等、様々な困難がただでさえ迷いだらけの人生の行く手をふさぐ。
感想
正直、面白くない。
帯に「主人公を応援したくなること、請け合い」とあるが、全くそうはならない…。
逆張りとかでなく、しっかりと理由があるので以下書いていく。
大前提、カティアが教師の仕事をかなりおざなりにこなしており、この時点でふるい落とされてしまった。もちろん、仕事に身が入らなくなるほどつらい経験をしたのはわかる。一方で、学校はカティアをまるっと受け入れてくれる場所ではない。将来を嘱託された年端もいかない若者が学びに来る場であり、自身の境遇から逃れるためだけに来ていい場所ではない。こういう想いが読んでいる間ず~っと脳内を渦巻いて離れず、カティアを応援したいという気持ちは微塵もわいてこなかった。
そして1番の原因は、納得できない描写が多々ある中で、それが第三者視点でさも共通認識かのように描かれている点である。
カティアがだめな人間だとだれもが思っているのに、優しい彼はカティアが才能を発揮できる場を与えようとしてくれているようだ。
p.102
ここに違和感が凝縮されている。
主人公カティアと彼(浮谷)の交流はこのシーンまででほとんど1度しかない。それも、浮谷が手汗でにじんでしまった字を代筆してくれるようカティアに頼んだただ1点だけである。
カティアから彼のことを一方的に気に入っているというのは多くの描写からよくわかる。一方で、浮谷がカティアに好意を持っている描写はあまりない、というか皆無である。カティアに優しく振舞う描写もあるが、一般的な他人への親切の範疇であり、特別扱いのような様子はない。つまり、カティアが「勝手に」彼が自分に好意を寄せているように思い込んでいるようにしか読めない。
そして、これらの様子をカティアの1人称で描かれるならば、納得いかないまでも渋々了承していた。1人称で展開される「彼女の」世界と「物語の」世界を別物として扱うことができ、人によってはそう考えるんだな程度で読み進められるからだ。
しかし第三者視点で描かれることで、私の納得のいかなさが、カティアという個人へではなく世界へと向けられてしまう。つまり私だけが世界から疎外され、入っていけず、結果として本書を読むことに面白さを感じられなくなる。
以上。久しぶりに自分にとってびっくりするほどはまらない本を読んでしまった。