印象派 モネからアメリカへ【芸術感想文】

アンデシュ・レオナード・ソーン
《オパール》

感想文

「記憶や先入観を排して世界をみたとき、自然はどれほど多彩な輝きに満ちているのでしょう」

そういう旨で締めの言葉を結ぶ音声ガイド(うろ覚え&意訳)。
展示全体を表しているとも言えるし、個人的な体験ではそれ以上の感動があった。

まず前者、展示全体として。

モネを始めとして、多種多様な出自の画家たちが自然の在り様を豊かな筆遣いで描いており、私のような素人が見落としてしまうような些細な光をも逃すまいとしてカンバスに閉じ込めていた。光が凝縮したような作品群は、もうね、たまらんよね。

グリーンウッドが写真を参考に描いていることからも伺えるように、写真や写実的な技法では実現不可能な、印象派だからこそ描き出せる色彩があるのだろうと想像できて、世界をみる解像度が上がった気分になった(一過性、かつ気のせい)。

というかソーン、印象派欲張りセットすぎる。ずるいよ。
光も影も、人間も自然も、彩度の高い低いも、それぞれの良さをぜ~んぶ最大限まで引き出して詰め込んでるんだもん。
しかもこれ、図録や画像だと私の感じた興奮が得られない。実物がやばい。1歩1歩、この絵に近づくごとに日差しが強まり、眩しく感じるあの厳かな雰囲気。たまらないよ、ほんと。

閑話休題、冒頭に書いた「個人的な体験ではそれ以上の感動」について。

音声ガイドでは「『自然』はどれほど多彩な輝きに~~」と締めくくっていたが、「自然」に限った話ではない。

チャイルド・ハッサムの「朝食室、冬の朝、ニューヨーク(1911)」がその際たる例で、むちゃくちゃ良い。
室内と、摩天楼。隔てるのは少し透けている薄いカーテン。
このカーテンが良い働きをしている。
街並みをうす~く映すことで幻想的になり、全く見えないよりも室内がさらに隔たれたように感じられる。また街と部屋の距離感がより大きくなることで、部屋内部の籠り具合が大きくなる。そして部屋には何が籠っているか。蓋し、色彩やエネルギーである。
安易に外へ出ていかず(隔たりがあるため出ていけない)、部屋に籠る色彩やエネルギーがカンバスに閉じ込められていて、濃縮還元ジュースを飲んだ時のような、満ち満ちた気持ちになれる。

最後にまとめ。

私の頭には「印象派=自然」という結びつきが強くあった。印象派の成立を鑑みると当然っちゃ当然ではある。しかし、本展示では印象派の可能性について、すごく視野を広げてくれる作品が多くあった。

自然に限らず、周囲を取り巻く環境には、先入観ゆえに見落とされてしまう色彩が多くあり、印象派の画家たちはそれらをカンバスに詰め込もうと心を砕いている。自身の生きる世界を余すことなく・取りこぼさずに映そうとする作品たちだからこそ、私の心は揺り動かされ、感動するのだと思う。

心にたくさんの栄養補給ができた良い展示でした。

好み

「ヨンヌ川の橋(夕暮れ) (1875)/ シャルル・フランソワ・ドービニー」
⇒線の揺らめき、好き。

「テラスにて(1874)/ ベルト・モリゾ」
⇒水平線と太陽の交わりを、絵の具の盛り上がりで反射する光で表現するの、良すぎ。

「母(1870)/ アルフレッド・ステヴァンス」
⇒印象派っぽくない箇所もあるんだけど、こう、全体を包む幸福感が良い。

「砂丘にて(1890)/ ヨゼフ・イスラエルス」
⇒切り取り方がうますぎ。海だからもっと広くとることもできたんだけど、人を待つ心細さや寂しさを表現するためにあえて人物に寄せて海を映しすぎない。良い。

「秋景(1895)/ 久米桂一郎」
⇒几帳面な構図に対して艶やかな補色の色遣い、素晴らしい。

「雪どけ(1918)/ ジョゼフ・H・グリーンウッド」
⇒雪、好き。

「秋の入り日(1908-09)/ ドワイト・ウィリアム・トライオン」
⇒1つの土地のあらゆる面を知り尽くしてこそ、という思想が好き。