開墾地
グレゴリー・ケズナジャット(2023)
講談社
要約
日本での留学から生まれ育ったサウスカロライナに一時帰国したラッセル。ペルシャで生まれ育ちアメリカに移住してきた義父は相変わらず古い家の手入れに勤しんでいる。特に葛は繁茂の限りを尽くしている。
ラッセルにとっての英語と日本語、義父にとってのペルシャ語と英語。数年ぶり、そしてわずか1週間の滞在期間でラッセルは自分のことばと故郷について思いを巡らす、短編小説。
感想
中庸が見事に表現した味わい深い作品(中庸という言葉への理解が浅くあんまり使いたくないけど、他に思いつかない。2つの事柄の間で揺れ動いて不安定だけども、なんだかそれが心地よくも感じられ、状態の重なりが作品の味わい深さを増幅させている、みたいなことが言いたかった)。すごく好き。
世界のどこに行っても英語は常に存在を感じさせる。故郷を出たとはいえ、英語から逃げ切ったわけではない。[略]ときには向こうの言葉の行間にも、母語に潜んでいたのと同じ不愉快なものが聞こえるような気がした。[略]だが向こうの言葉は母語ではない。自分の言葉ではない。そう言い聞かせて作った微かな距離はラッセルを守った。
p.80
特にこの文章はすごい。母語から逃げながらも、母語に守られている、2つの状態の重なりを綺麗に、過不足なく表している。何回も時間をかけて読みたい文章。
それから、本作でキーとなる葛について考えてみる。
英語に戻ることも、日本語に入り切ることもなく、その間に辛うじてできていた隙間に、どうにか残りたかった。
p.82
葛はおそらく帰属意識のメタファーではないだろうか。
父親はペルシャ語と英語、主人公は英語と日本語の間で揺れる。そして、どちらか一方に偏りたくない、あくまで中間地点を維持したい。とはいえそうもいかない。主人公の場合、サウスカロライナのホームセンターで周囲の英語が自分の中へ流入してくると、少しずつそちらに偏っていく。日本にいる時も然り。主人公が居続けたがる「中間」というのはひどく不安定で、あくまでその場しのぎでしかない。葛も、処理しても処理しても生息域を広げていく。燃やしたところで所詮その場しのぎにしかならない。きっとまた伸びてくる。
ラッセルや義父にとっての故郷とは、2つの言葉の間で揺れ動き、どうにもなくなってしまうその時まで、葛の処理のような一時的な措置しかとることができないものなのだろうと推測できる。(合ってるかは知らない。)
たぶん、こういうのを中庸と言うのだと思う。
鴨川ランナーの時もそうだが、ケズナジャット氏の作品は、言語を通して自分よりも大きな世界に想いを馳せているところに、言い知れぬ魅力があるように思う。言語は、毎日毎分毎秒と使っているものでありながら、共同体や国家のような、自分よりも遥かに大きなものと繋がっている。
ケズナジャット氏は、その大きなものを静かに見つめている。陶酔するでも、恐れるでも、興奮するでも、怒りを覚えるでもなく、正視し、考えている。ある種仏教的な修行の様相を帯びているようにも思える。だからこそ、彼の言葉は私の心に染み入るように響くのだろう。