モテないけど生きてます
ぼくらの非モテ研究会(2020)
青弓社
要約
「非モテ」とは何か、何が原因なのか。
この言葉を発端に「ぼくらの非モテ研究会」の参加者たちが自身の経験を振り返り当事者研究を行っていく。非モテに限らず、自身の生きづらさの原因となる出来事はどこにあったのか、あるいは非モテという被害性のある言葉の中にも、他者への加害性が含まれた経験はなかったかなど、「非モテ」に限らず幅広く省察を進めていく。
感想文
ジェンダー論とオーガニックは似ている、という気付きを得た良書。
どちらも、過程が見えると納得できる。
著者は、とある男性から抑圧されている苦痛について相談を受ける。電車に女性専用しかなかったり、映画ではレディースデイだけ存在していることを例に、男性は抑圧され、自身は苦痛を感じていると、その男性は著者にそう訴える。
ここで女性専用車両やレディースデイの存在意義については一旦置くとして、問題はこの苦痛を訴える男性に、かつて男性性を原因に傷ついた経験がないことである。確かな苦痛を訴えているはずなのに具体的な経験はない。これに対し以下のように著者は考える。
1970年代に隆盛したウーマン・リブの運動は、まず自分たちの痛みを言葉にすることから始まった。そして、「個人的なことは政治的なこと」という理念のとおり、家庭内で受ける暴力や、職場での軽視といった個別的経験を共有することで、それが実は普遍的に起こりうる社会問題なのだと発見していった。ところが前述の男性たちの「生きづらさ」は、個人的なことよりも先に政治的なことから取り上げられるという逆転現象が起きている。
pp.97-98
つまり、個人的な経験を出発点として、それを大きな枠組みへと広げていく過程が大切であるとしている。そして先の男性には社会や政治への大きな問題提起となる前提の個人的経験が欠けていたのだ。
このような「個人的なことは政治的なこと(The Personality is political)」という理念は、ジェンダーや男性学、フェミニズム等の範囲を越えて当てはまるものだと思う。そして私は特にオーガニックにそれを見出した。
というのも、オーガニックと聞くだけでは、(私にとっては)意識高い感じがする。先の文脈に当てはめるならば、個人的な経験が欠如し、大きなポリシーだけが存在している状態だからそのような違和感を感じるわけである。
ところが、以前私が読んだ「日曜日はプーレ・ロティ(CCCメディアハウス)/川村明子」を読めばオーガニックへの評価は一変する。オーガニックを好む人間は、突如現れたわけではない。自炊をし、より凝るようになり、既製品でなくなるべく1から作るようになり、素材に触れ、素材を意識し、自身の体のことを考えた結果としてオーガニックを好むようになる。かなり雑にまとめたが、日曜日はプーレ・ロティにはそのような経緯が丁寧に描かれていて、オーガニックに対する見方が変わった一冊である。
このように、「個人的なことは政治的なこと(The Personality is political)」はジャンルを問わず幅広い諸問題を捉える際に非常に重要となる概念だと感じた。当事者研究の効力は、一般論でなく極めて個人的な経験から帰納していくことで、自身と地続きになった大きな課題を発見できるところにあるのだろう。
余談
幽霊が軽くなってきたことで、僕はようやく、自分の考え方や生き方を見直そうと思えるようになった。
p.184
すごく悩ましい、というかう~んというか、納得できもするし、なんだかなあという気持ちもある。
「幽霊が軽くなってきた」というのは悩みが軽くなってきたに訳せるわけだが、逆説的に自身の悩みが軽くならないと自分の考え方や生き方を見直そうと思えないようにも考えられる。
確かにそうではある。自身の悩みが重く大きいとそれだけで頭がいっぱいになって他者への思いやりに欠けた言動になってしまう。一方で、いかに自分がいっぱいいっぱいであったとしても、他者を傷つけるような言動は許されるべきではない。デッドロックにも思えるような、大きな悩みを抱えてしまったときには、それを速やかに穏やかに発散できるような環境が必要なのだろう。
そういう意味でこの非モテ研というのは社会的にすごく意義のあるコミュニティのように思える。社会の在り方って、難しいなあ…….。