月と六ペンス
サマセット・モーム, 金原瑞人(2014)
新潮文庫
要約
美しい妻と子供二人を持ち、証券取引所でそれなりに裕福な暮らしを送るストリックランドは突然、絵を描くためにパリへと失踪する。彼は文字通り傍若無人で、病に伏す自分を看病してくれた男の妻を奪い、その女性を自殺させてしまうほどの悪漢ぶりである。しかし、語り手はそんなストリックランドのことをどうにも捨て置けず、彼の思考について考えることになる。
感想文
思ってたんとちゃう……。
友人から紹介された際「描かなければいけないんだ」と本編中のセリフを耳にした。その言葉を聞いてびびっと来た。これは私の好きなタイプの小説だと。
しかしいざ読んでみれば、思ってたんとちゃう…….。
その最たる原因は、ストリックランドの直接的な描写が案外少ないところにあると思う。
小説は文字で伝えるしかない。絵画であれば微妙なニュアンスをほのめかすような仕草が許されるかもしれないが、言葉ではそうもいかない。この読書感想文のようにはっきりと文字を書くしかない。
ではそんな形態を持つ小説で、どのようにして微妙なニュアンスを演出しているのか。答えの一つに、プロセスがあると思う。
例えば「富士山から眺める日の出が美しかった。」という文章があるとする。この一文ではありきたりで、感動が伝わらない。小説ではここにプロセスを付与することで日の出の輝きを際立たせる。ページ最下部の例文のような要領だ。
構成力・文章力ともに足りていないのはわかっているので、私の例文で人を感動させられるとは思っていない。とはいえこのように主人公の背景を語り、読者を彼に寄り添わせたうえで美しいと書けば、唯一無二の美しさを演出することができる。小説による微妙なニュアンスとは、このようなプロセスによるものが大きいと思う。
それを踏まえて本書は、主人公ストリックランドのプロセスが少ない。どちらかというとストルーヴェの話と言っても良いくらいである。だから、以下のように核心迫ったことを言われても、ストリックランドの描写が少ないゆえに、まあ、著者が言うのであればその通りなんだろうね、としか思えない。
唯一確信が持てたのは[略]ストリックランドが、自分を捕えようとする力から自由になろうともがいていたことだ。
p.257
つまり、内容と手法がちぐはぐで私の心にはあまり響かなかった。
期待していただけに少し残念である。
例文
「男は何十年も富士山の日の出に憧れていた。富士山を目視できる場所で生まれ育ち、時間の有り余る学生時代には登頂に挑戦したこともあった。しかし、およそ7合目で滑落してしまう。とはいえそれでへこたれるような小さな憧れでもなかった。仮に富士山に殺されるなら本望だとも思っていた。彼自身は富士山への熱を絶やすことはなかったのだが、登頂自体は医者に止められた。滑落による怪我はひどく、完治に1年を必要とするのだった。そして、その頃には就職活動が始まり、会社員になり、日々忙殺され、やがて結婚し、子供も生まれる。富士山への想いが絶えることはなかったものの、脳内が他の何かで埋められていたことも確かだった。さらに年月が経ち、子供がひとり立ちをする。彼は再び富士山を目指す。気付けば50歳だった。体力づくりに1年かけた。登山に慣れるのにもう1年かけた。怪我をすれば今度はもう、完治1年どころではないかもしれない。それでも努力を続けた。54歳になってようやく二度目の挑戦権を得られた。滑落しないよう細心の注意を払って登る必要があったものの、道中彼は自分の人生を振り返っていた。彼はふと、若かりし頃に滑落して良かったと感じた。憧れを常に抱えることで、どんな労苦も耐えられた。その結果、素晴らしい妻と出会い、愛する子供にも恵まれた。富士山がもたらしてくれた宝であり、もし若い時分に登頂成功してしまったら、人生への熱意が冷めてしまっていただろう。そう思うと、彼は富士山に感謝した。無事に登頂するまで、それはもう、無心で感謝した。そうして頂上に到達し、念願の日の出を目撃する。その光は、彼の50年余の人生を凝縮した光だった。まさに、祝福だった。彼の登頂だけを祝ってくれたのではない。彼の人生全てを丸々と包み込む、太陽の、富士山の、大いなる祝福だった。涙も流れなかった。圧倒的な光を目の前にして、彼は一言だけ呟いた。『美しい』」