ギリシャ語の時間
ハン・ガン, 斎藤真理子(2017)
晶文社
要約
目がほとんど見えない古典ギリシャ語講師の男性と、その受講生で話すことのできない女性が、自身の過去を振り返りながら互いを知る物語。
感想
これはすごい。
前半と後半に分けて感想を書いていく。
前半は主に本物語がどういうものかを理解するためのメモで、後半が感想になる。
前半について
白状すると、受講生たちを見ていて急にうらやましくなるときがある。僕らみたいに人生と言語と文化が真っ二つに割れてしまったことのない人たちだけが持っている、確固たるものに対してね。
p.88
語り主(彼)にとって、自身の「人生と言語と文化」は「真っ二つに割れてしまっ」ているわけである。正直、今まで考えたこともなかった話で想像が難しい。難しいなりに言葉にしてみる。
私にとって人生と言語と文化は密接に結びついている。こうして読書感想文を書いているのも、私の「人生」の一部であり、「言語」が使われており、感想は「文化」に影響されている。読書感想文は書かない人もいるので、あまり例として優秀ではないけれども、それら3要素が密接に絡み合っていることは、私にとって周知の事実である。
この「周知の事実」というのは、空気のようなもので、意識せずに呼吸ができているのと同じ感覚である。
「人生と言語と文化が真っ二つに割れてしまったことのない」私が上記のように感じているのならば、真っ二つに割れてしまっている「彼女」が以下のように感じるのも少し理解できる(ような気がする)。
彼女はその単語を知っていると同時に知らない。嘔吐が彼女を待っている。その単語たちと関係を結ぶことができると同時に、できない。それを書くことができると同時に、書けない。彼女はうつむく。用心深く息を吐き出す。吸い込みたくない。と思いつつ、深く吸い込む。
p.101-102
対比として現れる前者(知っている、できる、書くことができる)は、現実で起きた事象である。彼女はギリシャ語の授業を受けていて、教科書やノート、黒板にギリシャ語の情報が書かれている。実際、アクチュアルに、書かれているのである。だから彼女は「その単語を知っている」し、「書くことができる」のである。
しかし、彼女にとっての人生と言語と文化は真っ二つに割れてしまっている。文章を書くには自分自身が考えて書く必要がある。つまり、事実として黒板に情報があったとしても、「彼女」はその情報を自身と結びつけて書くことができないのである。
したがって、彼女は沈黙せざるをえないわけで、「二人が黙って互いの顔を伺い見るとき」も「彼女はそのことにどんな意味も付与しな」ければ「言葉で考えることをしない」のだろう。(p.107)
以上が、私の解釈である。正誤はともかくとして、この認識を前提に感想を以下に書いていく。
後半について
圧倒的描写力、表現力。すごい。言葉にできない。
私は著者の表現力をこのように褒めたい、が、言葉選びが適切でないことを自覚せねばならない。私が使った言葉たちには、勢いと強さが含まれている。
一方で本書の終盤にかけての描写には、強さも、勢いもない。
極めて繊細で、極めて控えめで、されど極めて勇気のある邂逅である。
人生と言語と文化が真っ二つに割れてしまった二人が、交わるその描写。安易に美しいと言いたくないけれども、私の貧弱な語彙では美しいとしか言いようがない。彼女が彼の手に文字を書く様子も、抱き合って互いを確かめる様子も、あまりにも、あまりにも控えめである。歩幅でいえば1ミリにも満たないような接近である。
しかし、二人にとっての一歩はあまりにも大きい。現実で起こっている歩幅は狭くとも、二人の胸の内に渦巻く想いは計り知れない。二人は互いに、互いのことを知らない。加えて、彼女は彼に姿や声を現すことができないし(彼の目が見えないため)、彼は彼女の存在を確かめられない(彼女が話せないため)。
そんな二人が、互いの存在を確かめ合うというのは、もう、なんて尊い営みなのでしょうか。感情の奥底に沈んだ孤独を、救い上げてくれるような、奥へ押し込みすぎて自分自身でさえ気に留めない寂しい感情を拾ってくれるような、そんな気持ちにさせてくれる。
「古代北欧叙事詩」での、「一人の男と一人の女が一つのベッドで迎えた最初で最後の晩、夜が明けるまで二人の間には抜き身の剣が置かれていた」ように、おそらく、彼と彼女の間にも、抜き身の剣が置かれていただろう(p.8)。それでも、それでも、二人はふれあったのである。わずかながら、されど大きな一歩として、ふれあったのである。
前半部を読んだときからは考えられないほどに暖かく、優しく、勇気のある作品だった。
いや~~~~~、すごい。