別れを告げない
ハン・ガン, 斎藤真理子
白水社
感想(訳者あとがき読む前)
この本が、究極の愛についての小説であることを願う。
p.302 あとがき
究極の、愛……!?
エピグラフのように済州島四・三事件が紹介されているので、それに関連した社会的な小説という思い込みを強く抱えて読んでいたため、読了後のあとがきにてこう書かれていて仰天した。
愛というには、幻想的すぎる。
病室で3分間隔で針を指に刺されているはずのインソンと、息絶えて雪の下に埋められたはずのアマが、主人公キョンハの目の前に存在している。温かいものを飲み、ロウソクの灯によって影ができている。そして降りしきる雪片。
私はこれらを、キョンハが死の淵に垣間見た幻想だと解釈した。ではなぜ本人ですら知らない四・三事件の情報が登場するのかと疑問が生まれるが、とにもかくにもそういうふうに読み進めていった。
したがって、愛というには、全てが幻想的で儚すぎる。主人公の目の前にいるキョンハもアマも、本物かどうか限りなく怪しい。存在があまりにも不確かすぎる。だから私は、究極の愛という言葉に驚いた。
感想(訳者あとがき読む前)
まず、やっぱり私は不勉強がすぎる。
あとがきを読むと全てが腑に落ちた。別れを告げないというタイトルの意味も、主人公のインソン宅での語りも、インソンと彼女の両親の闘いも、よく理解することができた。
それらを踏まえて感じたのは、強い羞恥に他ならない。
太平洋戦争後という比較的最近のうちに、韓国・済州島という比較的距離が近い場所で、あのような凄惨な事件が起きていたことを全く知らず、呑気に暮らしていた自分自身を恥じる気持ちしかない。
「歴史を繰り返さないために歴史を学ぶ」という言葉がある。私はこの言葉にどこか他人事で、こと日本で再び戦争が起こることなどありえないだろうと思っていた。
違う、そこじゃない。
戦争だけに焦点を当てるのは恐ろしく視野が狭い。歴史に起こった人間の感情、態度、想い、それらを知り、自身に深く刻むことも歴史に学ぶことに含まれると、最近になってようやく気付いた。きっかけは「台湾漫遊鉄道のふたり(中央公論新社)/ 楊双子」である。この作品の舞台は戦時中だけれども、その背景の影響が色濃く表れるのは、主人公の内面である。外ではない。主人公は台湾現地で出会った人々を、無意識的に差別しており、中々それに気づくことができない。
本書でも、似た苦しさを覚えた。争いがもたらす外的な被害はもちろん凄惨で、おどろおどろしいものである。一方で、それ以上に被害があるのは、人々の内面である。人から人への態度が、ある人の人格が、争い一つでがらりと変わってしまう。あるいは、争いと無知が、人間関係にひびを入れる。私は本書と訳者解説を読んで痛感した。だからこそ、学び続けなければいけないとも思った。
そして、作者の言う「究極の愛」について
愛するとは自分の生だけでなく、愛する人の生を同時に生きることだと思います。特に愛する人のために祈るとき、自分はここにいるが同時にそこにもいるという状態になるでしょう。切なる心でそれを希求するとき、その状態はおのずと超自然性を帯びてきますよね
p.319 訳者あとがき
感無量、それしか言うことがないが、感想文なのでもう少し書く。
質感は異なるが、春琴抄にも似たような愛の様式があることを思い出した。佐助が自身の目を潰した際に、これで春琴と同じ世界を共有できるといった旨のことを話していた(うろ覚え)。そして、新潮文庫版解説では「官能の神化」という言葉が出るように、超越的な愛が表現されていることを解説していた。
著者の考える究極の愛というのも、対象と同一化を図る点において近いのではないだろうかと感じたが果たしてどうだろう。別の作品を読む際も、この点を意識して読んでみるとよいかもしれない。