ケアの倫理
岡野八代(2024)
岩波新書
感想
これは、新書ではない。専門書といっても過言ではないほど、内容が充実している。
そしてこれは、新書でもある。私のような初学者でも振り落とされないように、ケアの思想の潮流を丹念に記述している。
ここからは、本書を読んで私が考えたことを、思考の流れに沿って記述していく。
自身の心に耳を傾けると、本書の学者たちはなぜ本書に書かれているようなことに気付けるのかという疑問が聞こえてくる。また翻って、なぜ私はそういうことに気付けず、本書の内容を新しいと感じられてしまうのだろうかとも考える。
本書では、それまでの政治・思想・哲学にとってラディカルな主張が多く取り上げられている。例えば、キティはそれまでの政治学では語られず、ないものとして扱われてきたケアでの依存関係を議論の壇上に引き上げているし、ファインマンは公権力の支援先を性的家族から母子対(ケアする者される者のメタファー)にすべきとの主張をしている。
これらはただドラスティックでインパクトのある話題として取り沙汰されるのではない。切実で決して無視できない喫緊の課題として、論理的に展開されていく。そのため、初学者の私にとっては非常に納得感があり、新たな視座を与えてくれるものとなった。
一方で、私はなぜこれらの主張を新鮮に感じてしまったのだろうか。これは経験不足が原因では決してない。本書でも「みな誰かお母さんの子ども」と言われるように、ケアというのは生まれてから成人するまでの過程で、程度の差はあれど必ず経験してきているものである。また、本書の「正義のパースペクティヴ」に対する「ケアのパースペクティヴ」の意味を考えると、ケアというのは母子関係のみならず、友人や知り合い等の自身と関係を持つ人へ思いを馳せるきっかけにもなるはずだ。
だのに、私は本書を「なるほど~」という呟きとともに読み終えた。これは明らかに、それまでの人生がいかに無思慮だったかということを示しているのではないだろうか(だろうかと結んでいるが、実際そうであって、あくまで「だろう」と推量の形をとっているのは、私の意地汚いプライドが認めたくないからだというのも自戒を込めて付記しておく)。
もちろん、本書でもハイコンテクストな部分は多くある。アリストテレスやカントなど、それまでの哲学・思想の流れを踏まえてケアの倫理がそれにどう立ち向かうかが書かれているので、その前提となる従来の思想は知っていなければならない(そして私はそれらを全く知らずに読んだ)。しかし、本書を読んだ時に出てくる感嘆詞が「なるほど」というのは、私自身が種々の配慮に欠けていて、他者との関係性について真剣に向き合ってこなかった証左ではないだろうか。
私は、学ぶ以上に考えなければならないと思う。他者と関わることについて、真剣に取り組まなければならないように思う。それが、本書を読んだ私の一番の感想である。