STONER

ジョン・ウィリアムズ, 東江一紀(2014)

作品社

感想

う~~~~~~~~~~~ん。

名作の雰囲気はわかる。さりとて私は好きじゃないし腹が立つ。

「わたしはわたしだ。(p.326)」と良い風に自身の人生を締めているけれども、妻イーディスに対して全く責任を取っていない。それだけでなく晩年の病床では妻から無償のケアを享受している。

イーディスの人生は、ストーナーの一時の情熱で大きく変わってしまったのである。しかし、彼はイーディスに何かをしてあげることが全くなかった。彼女が結婚によって断念したヨーロッパへ連れていくこともなければ、彼女に対して終始無関心でいる。挙句には職場で愛人をこさえ、体の関係を持ったところでようやく「自分が今まで、他者の体についてまったく無知だったことに思い至」るのである(p.231)。身勝手も甚だしい。

彼の中に、事態を如何ともしようと思わない無気力・無関心と、頑固なまでの情熱との両方を携えているというのは極めて人間的であり、一人の人間を描ききる小説としての完成度は非常に高いと思う。一方で、彼の人生には周囲への感謝が欠けており、「わたしはわたしだ。」と堂々と宣言する資格は塵芥ほどもないと強く思う。

結局、物は言い様である。ある意味で訳者の勝利。

例えばラノベ作家が本作と全く同じ内容のものを書いたら、おそらく憤懣やるかたない駄作になっただろう。もちろん、ラノベ作家を揶揄しているわけではない。納得の出来ない内容でも、まわりくどく、それっぽく書けばなんとなく良いことを言っている風になってしまうということだ。背表紙にニューヨークタイムズが本作を「巧みな語り口、美しい文体」として賞賛しているが、あくまでそれだけのことである。

1900年代の名作小説としての雰囲気は帯びているけれども、私は全く好きになれなかった。残念。

余談

「わたしはわたしだ。」

この言葉を同じ死の間際に、そっくりそのまま話す人物を知っている。

少佐(ヘルシング)である。

ストーナーは、「ふいに、自分が何者たるかを覚り、その力を感じた」上で、あの言葉に至っている。一方で、少佐は自身の存在を確固たる意志のもとで規定している。以上を踏まえると、正直、少佐の言葉のほうが遥かに鋭く私の胸に刺さる。

人間が人間たらしめている物はただ一つ、己の意志だ。[略]
私は私の意志がある限り たとえガラス瓶の培養液の中に浮かぶ脳髄が私の全てだとしても きっと巨大な電算機の記憶回路が私の全てだったとしても 私は”人間”だ。人間は魂の 心の 意志の生き物だ

HELLSING 10巻第7話『SORCERIAN 1』