親切で世界を救えるか

親切で世界を救えるか

堀越英美(2023)

太田出版

感想

本書を読んで2つの示唆を得た。1) ケアの倫理とは何か 2) 個々人の幸せに係る論理についてである。

1) ケアの倫理とは何か

ケアの倫理とは、一つとして被ることのない異なる環境や他者に対して実践を行う倫理と言えるのではないだろうか。以前「ケアの倫理(岩波新書)/ 岡野八代」を読んだ際は、ケアの倫理とは何かを説明することができなかったが、今ならこう言い表すことができる。

この考えの背景には、1つのトピックに対して1つの説明がなされるべきであるという私の先入観がある。1+1=2のように、イコールで結ばれる一対のペアがあるように思い込んでいたが、どうやら違うらしいとわかった。テイラーの多孔的な自己に代表されるように、人間とは本来、絶えず外部に影響され、流動的なアイデンティティを持ちうるものなのである。

本書ではこの多孔的なところを、日常の豊富な実例を用いて種々様々に説明している。ADSの娘やPTA、地域との関わりや、ドラマや映画鑑賞を通して、著者は表題にある「親切」について考える。そこには、単一のイデオロギーに支配されず、各種思想に対して、時に賛同し、時に疑義を唱える著者の姿がある。

ケアの倫理は人間のあらゆる領域での実践であり、その一側面としてジェンダーや家父長制というものがある。逆ではなく、あくまでケアの倫理が包括するのは人間、ひいては社会全体である。そういう意味で、本書は具体的なトピック名もつけられないような日常の一場面からケアの倫理について考えている点で優れていると言える。

2) 個々人の幸せに係る論理

そんなものはない。ロールズの正義論には母親を始めとするケア労働者が排斥されているというのは論外として、だとしても人間ひとりひとりの幸福を規定する論理などこの世にはないし、存在できないと思う。その理由は、1) にて説明した通り、人間は本来多孔的だからである。

LISPというプログラミング言語ではしばしば「神の言語」と言い表せることがある。その理由の一つに、例外処理が極めて少ないということが挙げられる。人間は、LISPの対極の存在であり、かつそうであることを礼賛すべきなのではないだろうか。

例外というのは、懸念の対象となる。仕組み通りに動かないので、都度都度の対応を迫られる。そういうものを、テクノロジーの世界ではなるべく排除しようとする機運がある。それはそれで合理的で納得できる行いだと思うが、これを人間に当てはめてはいけず、思考を分けなければならないように思う。

個々人の幸福は、あくまで当事者によって決定されるものであり、そこに論理は存在しない。本書でも登場するアダム・スミスの経済人から組み立てられる論理は、あくまでマクロな視点に立っており、ミクロな個々人に寄り添ってはいない。

一方で、大局を見失わないということも大切であり、これも都度都度の対応であり、つまりケアの倫理の実践となる。ともすれば、マクロな視点であれミクロな視点であれ、考え続けるという実践こそが個々人の幸福の何よりの材料になるのではないだろうか。