R62号の発明・鉛の卵
安部公房
新潮文庫
感想
砂の女に引き続き、やはり安部公房を面白いと思えない。蓋し、安部は感情よりも物語の構造に注力しているのではないだろうか。我々の生きる世界を要素分解し、それを組み合わせたり再構築したりするところに、安部公房の魅力があるとしたら、人間の巨大な感情を読むことが好きな私とはどうにも馬が合わない。
表題の「R62号の発明」が顕著な例で、解説でも語られている通り、本作では「動物・植物・鉱物を人間と同列に置く(p.352)」試みが為されている。しかし、それだけである。人間の優位性がロボットという存在によって転倒するという寓話的な面白さはあるものの、心を揺さぶるような熱量はない。短編という制約の都合もあるかもしれないが、終始淡々としていて、どうにも引き込まれない。
「盲腸」も同様に、人間の一部(盲腸)が羊の一部に置き換わることで訪れる変化について、思考実験的に描かれている。が、あくまで結果しか描かれていない。盲腸が羊に代替された結果、周囲の人間関係や思想等にこのような変化が現れましたという「結果」のみが描かれて、それに対する著者の「考察」があまりない。ゆえに事務的でつまらないように感じてしまう。
また「変形の記録」に関連して坂(2012)は以下のように、安部の特徴について説明している。
1950年代のアヴァンギャルド作家たちは、「古い文学としての自然主義」ではない、「今までとは違うリアリズムを確立する方法論」として、「記録」や「ルポルタージュ」という概念に注目していた。そして安部もまた、この「記録」、「ルポルタージュ」に強い期待を抱いていた作家の一人であった。
つまり、安部が目指す文学の地平は記録にあり、上述したような私の趣味嗜好と相容れないことになる。彼の作品には、観察・実験・考察の過程が存在しており、ある意味、小説家というよりも、観察者・科学者と表すほうが近いようにも思える。
彼の目指すものとアプローチまである程度知ると、彼が生誕100年を祝われるに足る人物であることは納得できたが、とはいえ私の好みではないということには変わらない。