鯨オーケストラ
吉田篤弘(2023)
角川春樹事務所
感想
言葉にならない良さがある。言葉にならない感情がある。言葉にならない時間がある。しかし、我々は言語とともに生きている。本書は、小説という文字メディアでありながらも、言葉にならない何かを見事に表現しており、極めて味わい深い作品となっている。私はこうして感想文を書いているけれども、それはあくまで感情のごく一部でしかない。呆然として、なすすべなく思考を滑らしている時間こそが、本書の味わいを最大限まで純粋なものにしていると思える。
また、言葉にできる部分であっても、得も言われぬ爽やかな抜け感が心地よい。本書の展開がその最たる例である。物語は、父親から引き継いだ後期高齢者のオーケストラでバンマスを務める主人公が、奇妙な巡りあわせを通じて過去を見つめ、未来へと踏み出していく内容である。正直、あらすじだけでいえばよくある話だ。しかし、シンプルな展開を骨子に、様々な人間が幾重にも折り重なり、それらを統合的な「鯨」が文字通りオーケストレーションしている。この、たくさんの細い線を鯨という超越的な存在が太く結ぶところに、観念的な素晴らしい心地よさを感じるのである。
そして、適度な言語化、過剰でない言語化が、その心地よさを妨げないところもありがたい。例えば作中に登場するカナさんは「人生はー」と言いかけて、「どうでもいい」とし、「詩を書きなさい」との一点を強く勧める。ともすれば作者の思想が出てきやすい純文学にて、このように説教臭くならず、不快感のない言葉の空白が作中の隅から隅まで行き届いている。簡潔な文章でありながらも、取捨選択が丁寧に行われていて、芸術作品としての素養も感じられる。
冒頭で言語化できない良さを語りつつも、しっかりと感想文として言葉に起こしてしまった。しかし、ここまでの感想文を改めて読み返してみると、これらの良さはあくまで本書のほんの一部でしかない。本書の良さは、本書を開いていないと得ることができず、主人公が美術館で感じた余白の味わいこそが、素晴らしい読書体験を生み出しているのだろう。