鴨川ランナー/グレゴリー・ケズナジャット(2021), 講談社
【感想】
鴨川ランナー
故郷(それに準ずる何か)を見つける話。
終始、ナレーターは「きみ」から始まる。おそらくこれは「I」で固定されているイマムラさんとの対比。
イマムラさんは自分の話を常にして、細かな文法の誤りを指摘されると不機嫌になる。まさしく「I」(私が)を自分の最優先として話すからこそ、「きみ」はイマムラさんに英語が合っていると考える。
一方で、本作は常に2人称の「きみ」であり、「自分のいない世界を想像したい」主人公に即している。自分自身を中心にして話すのではなく、自分のいない小説を好む主人公だからこそ、「きみ」なのだろう。
中盤までは、自国と日本、自分と日本人(容姿・口調・発音・国籍)など「比較」を通して価値を認識していたが、「それなりに美しい」光景そのものに惹かれ、意味ではなく音・リズムとしての「春琴抄(谷崎)」に惹かれて、やがて「比較」でなく絶対的な美しさのもとで故郷を見出すようになる。
「きみ」という表現で追体験しやすくなった上で、上記の故郷を見つけた物語の終盤には、読んでいる自分自身もどこかしらに満足感や充実感を得られる。大変心地よい。
主人公の成熟を自分のように感じられるのも良い。
作者が海外の方ということで、どうしても色眼鏡をかけて読み始めてしまったのだが、読後はもう作者なんて関係ない。1つの名作があっただけ。
余談:
鴨川ランナーの「きみ」で、Dogen氏を思い出した。
「きみ」にせよ、Dogen氏にせよ、理由に左右されず、「それなりに美しい」「来て良かった」という感情の動きが何物にも代えがたい美しさを持っているように思えて、心が暖かくなります。
「僕たちは自分がどうして日本に行かなければならないのかはわからない、しかし行かなければならないことだけはわかっている。だから『何で日本に来たの?』と聞かれたら僕は最近こう答えている。
“Why did you come to Japan?” / 「何で日本に来たの?」
『わからない。』
『わからないけど、来て良かったよ。』」
異言
鴨川ランナーが暖かな諦めで、異言は冷ややかな諦めと言えるのではないだろうか。どちらも、英語、日本語の各言語にアイデンティティを見出し、母国語とのズレを感じ、やがて日本語へと自己が収斂していく。
前者の場合、小説と対話することで、音やリズムの鬱く足差に気付くことができたが、異言では最後まで他者(自分の周囲にいる人々)に囚われ続けたように見える。その結果、「自分が(言語の先入観抜きに)どう感じるか」よりも「他者が自分をどう見て何を求めているか」を考えることに終始して、あのようなラストを迎えたのだと思う。
割とバッドエンド。
鴨川ランナーの「きみ」のように生まれや来歴を気にせず美しさに気付ける可能性もあったのに……。