雑草ラジオ

雑草ラジオ

瀬戸義章(2023)

英治出版

感想

ラジオが、今なおアクティブに存在し続ける理由の一端がわかる本だった。特に「辺境」のためのコミュニティラジオは、普及によって完全な「パブリック」となってしまったSNSと対の関係にあることに気付き、ゆえに現代でこそラジオは重要なものであるように感じられた。

最近(といっても数年前から聞く話だが)、インターネットのパブリック化の話を散見する。かつてのインターネットは、限られた人間によって、現実社会では吐露できないような思想に溢れるローカルな場として機能していた。しかし、SNSを始めとするインターネットの利用者の増加によって、現代のインターネットは最早ローカルではなく完全なパブリック化を果たした。

この功罪は様々にあるだろうが、ここではかつて存在した「小さなローカルコミュニティ」について言及したい。先んじて結論を述べると、ローカルなコミュニティは必要である。なぜなら、現在の社会では、一気通貫した銀の弾丸のようなセオリーなど存在せず、ケアの倫理的に、個々別々の事象に都度都度対応していく必要が迫られているからだ。

インターネットのパブリック化は、その功績の一つとして、マイノリティの声がネットワークを通じてマジョリティに届くようになったことが挙げられる。一方で、そうして届けられたマイノリティの声が(あるいはマジョリティの声含めて)、インターネットを利用する大衆によってカテゴライズされ、それが唯一の理論であるかのうように振舞ってしまう。

多様性はグラデーションである。虹色の種類が人によって異なり、かつそれが完全に定義できる日は絶対に来ないように、人間の性質もきっちりとFIXできるものではない。IT業界の定めであるように、いつまでたっても、最終版は出ないのである。確かに存在するのは、「氷の城壁」でつっこが発したように「そのときはそれで良かったんだよ」という、その場その時での最善の選択を行うという意志のみである。

つまり、我々が確からしいと信じて良いのは「その場その時での最善」であり、それは刻一刻と変化していき、やがて最善となくなる時がやってくる。だからこそ、「その場その時での最善」が極端にパブリック化されない、意識的に周縁化されたコミュニティが必要なのである。それを実現する方法として、コミュニティラジオという選択肢は非常に強力であるというのが、本書を読んで感じたことである。

余談

大学時代、FMわぃわぃについて少しだけ学んだことがある。その記憶とともに参考文献を覗くと、案の定お世話になった教授がいらっしゃって、大変懐かしい気持ちになった。