過去への旅 チェス奇譚
シュテファン・ツヴァイク, 杉山有紀子
幻戯書房
感想
過去への旅
す、すごい…….。
圧巻。
それまで豊富な語彙によって愛が語られてきたのに、最後にはうめき声しか出せなくなるという、想いの切実さたるや。読了後、到底すぐには受け止めきれない、感情の大きさたるや、重さたるや…….。苦しい、苦しいなあ……。
甘美な過去と、それを取り戻すことは不可能となった現実との擦り合わせができずに苦しむ主人公。彼の心を深くまで知った上で、最大限誠実に努めんとする彼女。二人を冷徹に、無情に、永久に切り離す戦争。なんと、なんと、度し難いことか。
実は、本作の登場人物や物語の構成は、結構ステレオタイプなものである。戦争によって分かたれた男女が、再会しても埋められない溝ができてしまっていることに気付くという話は、特段珍しいものではないと思う(シュリンクの朗読者なんかがテーマとして近いように感じる)。
しかし、圧倒的な表現力によって、唯一無二の作品へと昇華されている。私は読者として、本作を舌先に乗せて味わうまではできるけれども、決してそれを消化させてはくれない。途方もないほど大きくて、重たい感情が、簡単に飲み下すことを許してはくれない。まさに圧巻の一言に尽きる。
チェス奇譚
「過去への旅」の微に入り細を穿つ心理描写に加え、チェスの対局でのうねりや熱狂が瑞々しく描かれており、重厚ながらも楽しく読める、これまた味わい深い一作。物語の中心にいるチェントヴィッチやB博士のみならず、マッコナー氏やその他名もない端役たちもキャラが立っていて飽きが来ない。
もちろん、B博士が捕まっている最中の描写も真に迫る筆致で描かれており、たった2度の対局にこの上ない深みをもたらしている。特に、「無」の折檻による現代からは想像しづらい拷問の狂気がありありと浮かんでくる様が凄まじい。対局が進むにつれて狂気がフラッシュバックし、やがて「私」に声をかけられて紳士へと戻るB博士の感情の波に、読者も船客の一人として翻弄されてしまう。
ところどころ訳注によって物語の矛盾が補足されているものの、そんなものが全く気にならないくらい船の上の世界が完成されていて、最後までチョコたっぷりのごとく深く沈んで読むことができた。
余談
今回、感想を書くのがと~っても難しかったし、その出来に全く納得できていない。
「すごい」しか出てこないからだ。「過去への旅」に書いた通り、圧巻されっぱなしで、言語化できるほどの感情になっていない。この感想文は、本作を通して想起した感情のほんの上澄みにすぎない。まだ名前の付けられていない感情が私の心を激しく渦巻いていて、中々言葉がまとまらないのである。
当然、そういう感情にあえて言葉を与えないまま大事にとっておくのも重要ではあるが、私としては「書く」ことを深めたいという気持ちが強いので、納得がいかないながらも頑張って言語化を試みた。結果が惨憺たるものだったのは読めばわかる通りで、文章力のなさを恥じ入るばかりである。