地球の果ての温室で

地球の果ての温室で

キム・チョヨプ, カン・バンファ

早川書房

感想

ディスコミュニケーションは、悲しい(お話教信者)。あまりにも悲しくて、あまりにも切ない。モスバナと人間の関係が、レイチェルとジスのメタファーになってるのだとしたら、二人の関係は、レイチェルが説明するように「ただ、わたしたちはお互いにとって必要なものを持っていて、最後にそれを交換できるのではと思って」いただけのものだったのだろうか。

あまり認めたくないが、実際そうなのだろう。二人が出会った環境は、文字通り極限である。生死を目前にして、浮ついた感情を放っておけるほどの余裕はない。ゆえに、利害の一致が最優先とされ、互いの感情が、本人でさえも自覚できない奥へと閉じ込められてしまったのだろう。仕方ないといえば仕方ないのだが、袂を分かった後の二人の寂しげな表情を思うと、他に何かなかったのだろうかと思わずにはいられない。

とはいえこのような感想を持つのも、読者たる私が観測者として、ダストフォール前から収束後何十年も経った地点までを一息に見通せるからである。確かに過去から未来までを一気通貫して俯瞰すると、レイチェルとジスの物語の顛末はあまりにも寂しい。しかし、彼女たちが温室で育んだ、僅かな、されど確かな心の交わりは、著者の言葉を借りると「人工的で暖かな」ものだったのだろう。結果がどうであれ、その過程にかけがえのない時間が存在したのなら、充分と言えるのではないだろうか。いずれ全てが塵になるのであれば、心を通わせられた時間こそが何よりも尊いのではないだろうか。そう思わずにはいられない。

ところで、本作は多くの視点がある。私は、本作をレイチェルとジスの物語を中心に読んだが、本作はアヨンとヒス(ジス)の物語でもあり、ナオミとジスの物語でもあり、アマラとナオミの物語でもある。多層的に展開されるストーリーのそれぞれは重厚で、一口には表せない感情に満ちている。長編小説にしかない良さが存分に詰まっていると言える。

また、文章表現も素晴らしい。淡々とした筆致には、終末を目の前に決死のサバイブをする人々の切実さがありながらも、大切な誰かを想わんとする確かな愛が籠もっている。この、生への切実さと他者への思慕を両立した文章は、たとえ終末など程遠い世界にいる読者に対しても強く訴えかけられるものがある。

「わたしたちが光の速さで進めないなら」と同様、壮大な設定と素朴な交流のコントラストは、深く心に突き刺さる。特に本作は長編ということもあり、設定の大きさと、交流の細やかさ双方がより詳細に、より丁寧に描かれている。当然どちらがより優れているか甲乙つけるわけではなく、短編にしても長編にしても著者の持ち味が多分に生かされているという点で、両作ともに傑作と言っても過言ではない。