グレート・ギャッツビー
フィッツジェラルド, 小川高義
光文社古典新訳
感想
富裕層の愛憎渦巻くドラマに、微塵も興味を持てなかった。ギャッツビーが未練たらたらな情けない男なのは言うまでもなく、トムは倫理観と客観性を失った屑狂人だし、無気力でどこかなろう系主人公のようなニックも鼻につき、作中人物誰に対しても感情を持つことができない。結局は金持ちの道楽なわけで、切実さがないのだから冷ややかに読むしかできないのだ。
また、本作は前提が長いのも苦しい。表題でもあり物語の中心人物でもあるギャッツビーは、言及こそされるものの、本人が登場するのは第三章になってから、ページにして80/295が進んでからである。それまでに何らかの面白い出来事があれば良いものの、前述した通りの不快な人物たちによるパーティーや会話が主なので、2章まで読んだ時点で、詰まらなさと展開の進まなさに辟易してしまっている。
それから、本作が第三者的な立場を維持するニックによって語られるのも、面白くなかった一因であるように思う。既に述べたが、ニックは物語の当事者ではない(ギャッツビーとも、デイジーとも深い交流があったわけではない)ため全体的に冷静な態度を保っている。そんな男から、五年来の愛の行方を説明されても、熱量が読者たる私にまで伝わってこない。せめてギャッツビーやデイジーらの主観で進行していれば、多少は物語にのめりこめたのかもしれない。
一応、解説には本作における種々のコントラストについて言及されてはいたが、それとてあくまで構造を楽しむものであり、物語として楽しめるかというと同意しかねる。何度も読み返すことで、一読するだけでは気付けない深みを発見していくことができるのだろうが、とはいえ本書を読み返したいとは、正直思えない。モームの月と六ペンス同様、ある程度寝かしたあとに再読すればまた感じ方も変わるかもしれない、それが現状最大限のフォローである。