風の万里黎明の空 下
小野不由美
新潮文庫
感想
最後の一文をもって、過程でのもやもやが全て払拭されてしまった怪作。正直、99%はありきたりな展開だけれども、最後に発令された初勅のために積み重ねられた長い道程だとするならば、見え方はまた違ってくるから面白い。「虚構の男」でも似たカタルシスを覚えたが、してやられた感が否めず、悔しいやら楽しいやら、悲喜こもごもである。
それにしても、陽子の成長曲線の上がり具合が凄まじい。「影の海」の陽子と同一人物であるとはとても思えない。上巻でも見られるように、無愛想な景麒を従えているのもさることながら、拓峰での戦いでは彼我の戦力差と人員を見極め、自身の為すべき事を俯瞰して確認できているのが圧巻である。今後の陽子の成長と統治が楽しみでしかたない(慶国メインの続編があるかはわかんないけど)。
ところで、本作はブッディズムの影響を色濃く受けているようにも感じられる。無知の罪が作品の通底に存在しているからだ。メインキャラクターである女性三人、陽子、祥瓊、鈴は、それぞれ己の無知とそれによる視野の狭さにより、意図せず罪を犯す(麦秋の罷免、父王仲達の乱心、鈴は例外?)。そして、拓峰での諸々を通して自他の在り様を知り、無知の罪を自覚し、謀反という、知った上での罪を犯す。
このように、かつては無知の罪を背負っていた彼女たちが、自らの目で見て知ったことを通して、自覚的に行動を起こしたからこそ、昇鉱と呀峰の討伐に成功したのではないだろうか。著者の意図の有無を問わず、「知って犯す罪よりも、知らずに犯す罪のほうが重い」という仏教の思想が背景に見え隠れするのは、決して気のせいではないだろう。
ともあれ、本作は逆境を克服して苦難を乗り越える「ジャンプ的」作品として読むことが一般的だろう。多くの陣営が入り乱れる群像劇が熱いのはもちろんのこと、それらを経て放たれるたった一言の初勅には、総頁700越えの物語を読んでいないと味わえない感動が確かにある。