感想
本作は、24時間テレビである
本作を通して、フィクションとリアリティの間に存在する「わざとらしさ」について考えてみたい。というのも、本作は世界中でベストセラーとなる作品であることを理解できたのにも拘わらず、作品の随所から「わざとらしさ」が感じられてしまうのである。良い作品であるからこそ、私の中で起きている得体の知れない拒否反応について検討したい。
1. 展開について
良く言えば気持ちの良い展開、悪く言えば出来すぎである。言わずもがな私は後者の心持ちだが、なぜだろうか。蓋し、本作における「象徴」が多分に強調されているからだと思われる。
本作の象徴はもちろん、「髪」である。表題の「三つ編み」に始まり、インド→イタリア→カナダへと渡っていく母娘の髪や、三つの物語が並列に進んでいく構造など、とかく「髪」が象徴的な存在として物語の骨子を支えている。が、しかし、目立ちすぎているように感じられてならない。サラが癌と診断されたあたりから、「スミタとラリータの髪がジュリアによって加工されてサラのカツラとして渡る」という展開が読めてしまうくらいには、露骨である。
これは、伊予原新や安野貴博のような、小説の「ツボ」をばっちりと押さえた作品づくりに似ている気がする。伏線張りと回収によるカタルシスを、誰にでも感じられるように、読者に対して過度なお膳立てをするタイプの物語である。つまり、「読む」主導権が、「私」でなく「著者」に握られているようで、素直に楽しめなくなるのではないだろうか。
(ただ一方で、これは著者に非があるわけではない。そもそも伏線等々を簡単に気付けるかどうかは読者の読解力に依る。本作にわざとらしさを感じるのは、あくまで「私」の読解力からすると簡単すぎるからというだけなのだろう。仮に本作を難解に感じたとしたら、「わざとらしさ」なんて微塵も抱いていないことは容易に想像できる。結局のところ、自身の読解力と著者の親切心がミスマッチを起こしているだけであり、それだけで「わざとらしい」と言い張る私が傲慢だと思う。まあ、とはいえ読書感想文というのは読者が自由に書いてなんぼなものなので、このまま続ける。)
2. 当事者性について
上述したようなお膳立てに加えて、著者が当事者でないというのが気になる。インド、イタリア、カナダを股にかけるグローバルな小説なのに、著者はフランス出身どころか、取材までもパリで済ましている(謝辞にて、ウィッグの生産会社への取材はパリにて行ったことが明かされる)。もちろん、小説は必ず当事者が書けということでも、必ず現地へ取材へ行けというわけでもない。そんなことをしたらサスペンスなんて誰も書けなくなってしまう。
ただ、不可触民を始め、かなりセンシティブな話題を扱うのにも係わらず、著者がフランスを出ていない(ように思える)のは少しもやっとする。ましてや、物語にハートウォーミングの要素が多く含まれているのだから、人の苦労を美談として消費するような無自覚な残酷さまで見え隠れしてしまう。流石に穿って考えすぎだろうか。しかし、1を含めて考えると、明らかに読者を感動させようとしている意図があるのは明白で、予定調和的な白々しい空気が流れていることは、どうしても否定できない。
結局
1,2を書いて、私は既視感を覚えた。本作の「わざとらしさ」は、「24時間テレビ」に感じたものとそっくりであると。24時間テレビも、お膳立てされた感動ストーリーを、全く当事者でない高いギャラを貰っている芸能人が白々しく涙を流す番組である。それはまさに、本作で行われていることに多く共通してるのではないだろうか。
真に感動するのは、読者(作品の受け取り手)が能動的に作品を「読む」ことによって生まれるのだろう。また、物語自体は、ポジショントークでない、当事者による生の声のほうが、より人の心を震わすのだろう。また、当事者でなくともせめて、当事者と同じかそれより低いレベルにまで視線を落とした状態で書かれた作品のほうが、より真摯で、拒否反応を起こさずに読めるのだろう。