感想
そろそろ私は、内なる李徴を人間にしてやらねばならないのかもしれない。
本書はタイトルの通り、批評初心者に向けた入門書である。チョウのように読み、ハチのように書くためのポイントを、豊富な実例とともに紹介しており、批評をやってみたいと思えるような熱意に溢れている。理論と実践がバランス良く載っており、批評入門として優れた一冊だと言えるだろう。
実際、普段から読書感想文を書いている私としても、参考になる箇所が多くあった。「成功価値」と「受容価値」を初めて知って、思考の解像度が上がったように思えたし、巨人の肩に乗るための努力がどれほどのものか知ることができた。批評には、誰でも気軽に一歩を踏み出せる一方で、その世界はどこまでも広く、まさに「批評というものは芸術なんだ(p.132)」と実感したのだ。
しかし、真に私の心を貫いたのは、そうした批評理論ではない。「批評はコミュニケーションの一種(p.182)」である。もう、耳も心も、体中が痛い。私の胸中に棲む虎が、うめき声をあげてのたうち回っている。私の李徴が、袁傪すら持たない孤独な李徴がうめいている。
私は読書感想文を書いている。本サイトで、そして開設前はnoteで。もう書き始めてから五年くらいが経とうとしている。その中で、私はそれらを一切、外部へ公開してこなかった。今のこのサイトも、検索エンジンに上がらない設定が施されていて、私が出先から参照できる用途での運用が主となっている。
なぜそうしてきたか。衆目に晒されて、それを気にして、書きたいように書けなくなるのが怖いからだ。noteを始めとしたWeb記事では、日々熾烈なパイの奪い合いが行われており、いかに一目を引くか、いかに楽しませるかということが必至となっている。時には面白さとPV数を求めるあまり、行き過ぎてしまって炎上するような人だっている。私はそういう、PV数に踊らされる怪物にはなりたくないから、内へ閉じこもって、心の赴くままに感想文(≠批評)を書いている。
そうして感想文を書き続けてきた結果、私自身もまた、虎へと変貌していて、挙句そのことに全く気付いていなかった。「批評はコミュニケーション」だという言葉を読んだ瞬間、私は自身の臆病な自尊心と尊大な羞恥心に気付かされたのだ。気づかされてしまったのだ。
良い加減、人里へ下りても良いのかもしれない。まあ、素人がわざわざネット上に批評を上げる意義なり意味はないのだけれども。とはいえ、勿体ないと感じてしまったのだ。本書の批評によるコミュニケーションの様子を見て、私もそうした関係を持てるようになりたいと、心から憧れたのだ。もっと素直に言うなら、せっかくの楽しい機会をふいにしてしまっていると感じたのである。
もっと色々挑戦してみたほうが良い気がする。最近「生殖記(小学館)/ 朝井リョウ」を読んだ人間の発言とは思えないけれども、本書はポジティブにそう思わせてくれた。ある意味で、どんな名作よりも価値のある本だったと思う。