感想
端的に言って、めっちゃ面白い。
「メディア論(フィルムアート社)/ 門林岳史, 増田展大」の説明で言えば、生命論的知能観を、本書ではサイバネティクス、あるいはネオ・サイバネティクス的アプローチをもって、昨今のDXやAIについて語っている。著者が主張する通り、現代社会はシャノンの提示するコンピューティング・パラダイム一辺倒なところがあり、私自身もまたそうした価値観を内包しているからこそ、本書の主張はドラスティックで、語彙力を失うほど、めちゃくちゃ面白い。
たぶん、最近興味を持っている分野をぴったり扱っているから、現時点の私にとってすごく面白いのだと思う。とはいえ、独学で、というよりただの読書好きなだけの素人なので、色々と知識のあやふな箇所が多くある。そのため、以下ではとりあえず本書を読んだ時点での私の知識をメモ的に残しておく。中々考えがまとまらないし、知識は全く足りていないけれども、今後さらにAIが当たり前になっていく社会で、重要な視座を与えてくれる本だったのは間違いない。
メモ1:思い出したこと
本書は2023年に出版されたものだが、2025年現在、「AI採用面接」が登場している通り、現代社会は素朴実在論に傾倒したまま、AI利活用の道を直進しているように思う。また、私のよく聞くポッドキャストでは「AIの恋愛」について語られているが、ネオ・サイバネティクス的アプローチを主張する専門家が、素朴実在論を信奉する二人の素人のもとで劣勢に立たされている。なんとなく、世界がディストピアに向かっている予感がするのは、気のせいだろうか。
メモ2:ケアとの関係について
レヴィ・ストロースは「野生の思考」にて、サルトルを批判しているが、ここでの批判対象の主はあくまで「啓蒙主義」ということで良いのだろうか。西欧が諸外国を啓蒙するという思想は批判されてしかるべきなのだが、構造主義と実存主義の関係は、単なる「レヴィ・ストロースの完勝(p.71)」で終わらないのではないかと私は考えている。
というのも、「ケアの倫理」は、どちらかというと実存主義や現象学的アプローチに隣接しており、その点においては今なお有効な思想法なのではないかと考えている。例えば、「客観性の落とし穴(ちくまプリマ―新書)/ 村上靖彦」では著者が自身のアプローチを現象学的であるとしていてるし、「フェミニスト現象学」のような現象学的アプローチを主とする本も、基礎情報学が確立した後の2020年に出版されている。
確かに、ことDXやAIというICT利活用においては、現象学や実存主義は力不足で、新実存主義が台頭しているのかもしれない。ただ、ケアの倫理という、個々人の経験を重視する領域においては、現象学や実存主義的アプローチもまだ効力を発揮するのではないだろうか。
メモ3:誰? について
「誰?(国書刊行会)/ アルジス・バドリス」が、オートポイエーシス的な視点に基づいた物語であるように思えてならない。マルティーノは、知人との再会と、無力な自身を受け入れた上で、新たな自己を「プロパゲート」していく。まさに本書で言うところの、「意味(=価値)」を生産する営みそのものである。
実際、マルティーノは顔と腕が機械によって代替されており、「メディア論」で言うところの「フロイトの補綴」に他ならない。マルティーノは、自身に取り付けられた補綴を「身体化」していく過程を通して、主体的な「意味」を新たに生み出している。だからこそマルティーノは、たとえ顔がわからなくてもマルティーノであり、かつ、本人は誇り高く「いいえ」と答えられるのだろう。「誰?」という物語は、生命論的知能観における、自己産出性の物語なのである。
ここまで書いていて思ったけど、「HELLSING(ヤングキングコミックス)/ 平野耕太」の少佐も割と近いところがあるかもしれない。彼は完全に機械だけれども、とはいえ自己産出性と再帰的な意味の生産という点においては当てはまる。「私は、私だ」というセリフは図らずもネオ・サイバネティクスについて端的に表していると言っても過言ではない(過言)。