常識のない喫茶店

常識のない喫茶店

僕のマリ

柏書房

感想

 接客業の経験のある身からすると、とても他人事とは思えず、何なら胃がキリキリするくらいのリアリティがあった。良い方向でも悪い方向でも個性豊かな客とのやりとりや格闘が書かれているが、書面に入らないような些細な喜びや苛立ちもたくさんあるんだろうなと想像できる内容で、読んでいて楽しいような苦しいような気分だった。

 一方で、接客、ひいては人間のコミュニケーションがいかにノンバーバルなものに支えられているのかということも考えさせられるようだった。というのも、正直なところ、厄介客や素敵な常連さんのお話はさほど珍しくない。本書に限らず、方々のメディアでこういう話題を散見するわけで、意地の悪い考え方をすると、飽きもせずによくまあ、という感じである。

 とはいえ、そうした話が令和の世になっても尽きないのは、コミュニケーションが言葉だけに拠るものではないからだろう。つまり、所作や仕草、その場の空気感や雰囲気など、文字に起こせない変数が多分にあり、それら無限の組み合わせを魅力に思うからこそ、本書のようなエッセイが多くの人の手によって生み出されるのではないだろうか。

 本作にしたって、私は著者の日常の片鱗をほんのわずかだけ楽しませてもらっているに過ぎない。実際の著者は、本作の内容以上に、感情豊かに一喜一憂しながら働いているのだろう。ここでの「感情豊か」とは、他者に向けて表象されるものを指さない。あくまで当人の中で湧き上がるものである。そういう点で、本書の苦しくも幸福な喫茶店労働生活は、著者が誰よりも享受しているように思えて羨ましく感じるのである。

 身も蓋もないが、時給換算すると、1,000いくら程度である。それでも、当人の在り方と身の振る舞い方次第で、それ以上の価値ある時間を育めるのだろう。最近ではカスハラという言葉で客側のモラルについても目が向けられるようになっている。本書のような、店と客が、店と客という立場で良い時間を過ごせるような空気が広まっていってほしいなと、切に、切に思う。かつて胸ぐらを掴まれてどやされたことのある店員からの願いです……。