感想
捩れた言葉、ほつれた言葉、支離滅裂な言葉で、何かが思い浮かんだらそれを書く、不器用に書きはじめ、不器用に書き終える、[略]「この市場≪バザール≫こそ人生だ、俺の穴ぐらに入ってみろ、埃やゴミだらけだ、それこそ俺が考える人生だ」
p.215
これが、これこそが私の読みたい作品だったんだと、声を大にして言いたい。サイトを開設してから「マイベスト」と称してたくさん読んできたけれども、それら全てが霞むほどに、あまりにも、あまりにもな作品だった。私のために書かれたと臆面もなく思えるほどで、社会的な評価なんてどうでもよく、超主観的に最高の一冊だった。
語れば語るほどにうすっぺらくなりそうなので書く指を止めたいのだけれども、むしろ私は書くことによってこの作品と唯一無二な関係を築きたい。「書くこと」と「人生」の痛切な繋がりが私の中にはあるから、≪割れたグラス≫のようにして、その断片を確かに書き留めたいのだ。
それでまず書きたいのは、名もなき人生の凄みである。これはもう、私自身が名もなき人生を送っていて、ネームドキャラになることを要請される社会に生きているからに過ぎないのだが、歴史の教科書に載らない人間であっても、その人生には確固とした凄みがあることを信じられる内容になっているのが最高である。名もなき人生が、名もなき人生のまま、美化も称揚もされずにそのまま描かれているところに文字通りカタルシスがあるのだ。
こう書いて思うのは、私は生きた証(≠肯定)が欲しいのかもしれない。他者にとっての価値なんてなくてもいいし、自分自身がその価値を認められなくてもいいから、あくまで生きたという証が「書かれる」ことによって存続してほしいという痛切な願いがあるのだと思う。私の人生が否定されたとしても、その存在までは否定されることがないし、できもしない。そういう存在への欲求を《割れたグラス》は見事に書いてくれているのだろう。
つまり、希望も絶望も、喜怒哀楽も、願いも、諦念も、全てを駆け抜けた地平にようやく「書くこと」が存在するのである。全てはただそこに「在る」。それ以上でも、それ以下でもない。それをそのまま書くことこそが、翻って、歴史に名を残すことのできなかった私のような人間への、最上級の慰めとなるのだ。だから、私は、この作品が私のために書いてくれたのだと感じるのである。
もうね、涙が出そうなんです。どんな感動するハートフルストーリーよりも遥かに涙腺が刺激されるのです。この作品には、良いや素晴らしいを越えて、ただただ感謝の言葉を送りたい。書いてくれてありがとう。本当に、ありがとう。