感想
自分の中で類を見ないほど付箋を貼りたくったせいで、良い意味で感想がまとまらない。「ケアと編集」一冊丸ごとでようやっと必要十分な「ケア」を表現しており、一部分を抜き出して「これがケアである」と言ってはならない良さと凄みがある。
本書を読んで感じるのは、やっぱりケアは万人に開かれているのだということ。もちろん、難病や障碍を抱える人に対して介護する人がいるというケースはいくらでも考えられるのだけれども、「ケア」のカバーする範囲はもっと広くて、ケアする/されるの境界は曖昧なのである。本書でも紹介された「中動態の世界」が説明するように、両者のグラデーションは極めて曖昧で、人間ひとりの中には「する/される」両方のケアが内在しているのだ。
そして、私はここに大きなありがたさを覚える。私は人付き合いが上手なほうではないし、男性という存在の加害性についてもやもやすることも多い。既に別れてしまったけれど、神経発達症の恋人がいて、その方とどう向き合うかでもすごく悩むことが多かった(むしろ別れたからこそ、どうすればよかったのかと考えることも多い)。そうしたときに、「ケア」という存在は、回答を与えないにせよ、私の凝り固まった頭をほぐしてくれる考えや行動を提示してくれる。文字通り、巨人の肩に乗らせてもらうことで、狭まく鬱屈した視野を、遠くまで開放的に広げてくれるのである。
感想文として読み返したときに記憶のフックになるように、本書での具体例をひとつ挙げておく。101ページにある「べてるの家の『非』援助論」に掲載されている漫画である。ここでは「べてるの良いところは?」という問いに対して、「人間関係がどろどろしてるところ」という回答が「妙にきっぱりと」飛び出してきたのだ。
自分でも意外に思うのだが、私はこの感覚が、エンパシーとして理解できる気がするのだ。理由は読書会にある。というのも、読書会には、思想的なこだわりを持った人や、SNSでヘイトを撒き散らしているような人も参加することがあるのだが、会を通じて喋っていると、不思議とそうしたアクの強さが気にならなくなるのだ。彼らに対する共感や理解は全くないのだけれども、とはいえどことなく親近感を覚え、良い読書会だったと振り返ることができるようになるのだ。
ここが、先に挙げたべてるの家の漫画にエンパシーを覚える理由である。その漫画では最後に「なかなか解決しないのに和やかなムードになってゆくべてるミーティング。でした。」と締め括られるのだが、私が読書会に対して抱く感情もまさにこれに近い。読書会でいかに会話を重ねようとも、何かが解決されることは全くないのだけれど、最後には和やかになって、「なんだか、ほっとする」のである。ケアの一つには対話があり、しかし手段としての対話でなく目的としての対話であることを、実感をもって考えることができた一ページだった。
他にも例を挙げればキリがない。挙げてもいいし、挙げておいたほうが話のネタになるんだろうけれども、他にも読みたい本が待っているので、この感想文は一旦ここまでとする。新書特有の情報密度の高さ、一文の無駄もなく、最高の一冊だった。