危険なトランスガールのおしゃべりメモワール

危険なトランスガールのおしゃべりメモワール

カイ・チェン・トム, 野中モモ

晶文社

感想

飢えはあなたが閉じ込められる物語。愛はあなたをどこか新しいところへ連れて行く物語。

p.215

 暴力、官能、溢れ出るエネルギー。力のある作品とはまさに本書のようなものを指す。物語に描かれるトランスだからといって、品行方正なわけではない。本書で登場するフェムたちは、タイトルの通り皆どこかしら「危険」で、他者へ危害を加えたり、自分自身を傷つけることも一種の日常になっている。しかし、そのような姿こそがリアルであり、端正に整えられた作品では知ることのできない景色が広がっている。

 特に印象に残ったのは、色彩表現が豊かなこと。装丁に引っ張られてしまっているのかもしれないが、「煙と光の都市」という曖昧模糊とした景色に、暴力によって流れる鮮血が、ことにビビッドで、目の眩むような彩度の高さを想起させる。それはあくまで文章表現の結果に過ぎないのだけれども、フェムたちの人生の(善し悪しはともかくとした)豊かさに繋がっているようで、かなり味わい深い。

 それから、やっぱり本作もケア的だと思う箇所が多々あったので、メモっておく。

ときどき彼女たちはケンカになり、それは悪意に満ちているけれど、ほんの数秒もすれば解散になる。

p.62

 まず、ここは先日読んだ「ケアと編集」の、べてるの家を「人間関係がどろどろしている」ときっぱり言いきるところに似ている。FABの人々は、互いに愛し合っているどころか、むしろ憎悪を送り合うこともある。しかし、それが劣悪な関係と結びつくことはない。そこには、会話を目的とした会話があり、「おしゃべりメモワール」と題される通り、あてもなくおしゃべりをし続けるからこそ見えてくる地平があるのだと思う。こうした関係の築き方は、すごくケア的ではないだろうか。

 ちなみに109頁でも会話によって互いを知る様子が描かれており、暴力という真逆の概念が存分に描かれる一方で、会話もなんだかんだ丁寧に描かれているというギャップが中々面白くもある。

 キマヤの番が終わると、他のフェムがひとりひとり舞台に上がる。ほとんどが歌ったり踊ったり、またはリップシンクしたりする。詩を読む人もいれば物語を語る人もいる。夜が深まるにつれ、あたしたちのあいだに何かが育ってゆく。

p.166

 ここは「フィフティ・ピープル」の原案を思い出す。50人の登場人物が、最後には皆集まって踊るという展開にしようとチョン・セラン氏が考えていたものだ。私はどんな踊りにも疎いのだけれども、なんとなく、踊りという行為の持つ力というのを最近考えさせられる。完全に私の好みだが、「あかるい秘密結社」という楽曲でもみんなでわけもなく踊る場面があるのだが、本作での躍るシーンは、私の中でこの曲とリンクして風景が浮かんできた。

 踊るということは、体をダイナミックに動かすこと。つまりそれは、自身の身体性の限界を知り、受け入れることになるのではないだろうか。かっちりした根拠をもって書いたのではない。ただでっちあげただけである。とはいえ、躍るという行為の持つ力は、案外計り知れないもののように思うのは確かである。全然論理だっていないけれども、踊りもまた、ケアの一つになりうるような気がするのだ。

余談

 今回の感想文はこれにて終了だが、日記を少し。

 というのもここ一週間くらい、メンタルがあまりにも悪い。人間関係のあれこれが立て続けに起きているために、調子のよいときと悪い時の差が激しすぎる。病名を言ってしまうとその型に自ら当てはめてしまいそうなので明言しないが、本当に、精神的につらい状況が続いている。正直打開策はなく、今は耐えるしかないので、頑張って耐える。6月アメリカ行くまでは、一応なんとか食らいついてみようかなと。

 ただ、読書感想文は雑になると思う。どれだけ面白い作品を読んだとしても、私に余裕がないので、どうしたって文章が雑になってしまう。今こうして書いているのは決して言い訳でなく、後に振り返った際に、文章の雑な原因を明確にしておくためである。文章が雑なことは動かしがたい事実なのだから、言い訳したって仕方がない。

 せめて未来の私が、今の私の苦しみを、多少なりとも思い出してくれれば幸いである。