感想
ベンガル語を話す両親のもと、イギリスで生まれ、アメリカで作家となり、イタリアに移住した旨が概要として書かれてあったので、ディアスポラ文学のような雰囲気を想像していた。しかし、実際は英語・イタリア語間の翻訳の話が主で、「翻訳のレッスン」のような趣があった。
それがつまらないというわけではなかったものの、よく聞く話が多かったために、あまり新鮮な気持ちになれなかった。例えば「エコー礼賛」で語られる、創作は模倣の一つに過ぎないという論は、翻訳に限らず種々の文学論にてしばしば取り沙汰されている話題であり、さしたる珍しさはなかった。
加えて、著者から切実さを感じられなかったのも大きい。著者の背景を知らなければ、そもそも和訳されたものでもあるので、実際のところは知る由もないが、「なんとなく」という理由でイタリアに移住して作家生活を送れるという点で、ディアスポラというよりも、ブルジョワジーの芸術活動のように感じられてしまった。(文章の裏にある貧富に、私がすごく敏感な話は「ミーツ・ザ・ワールド」でも語っている)
たぶん、以前「母の舌」を読んでいて、そのイメージが念頭にあったのだと思う。複数言語で語るということは、実存としても、精神的にも、アイデンティティを巡る攻防が繰り広げられるものだと思っていた。ところが、「翻訳する私」のように、それほど明確な理由がなくたって、越境していける。このあたりの勘違いが、肩透かしの主な理由だろう。
というわけで、決して面白くなかったわけではなかったものの、心が震えるほどのものは感じられなかった。まあ、最近疲れていることが原因だと思うのだけれども。
