感想
久々に読書で泣いた。後半にかけて、読むのが本当にしんどすぎた。
まず、発達障害の生々しい描写が苦しい。というのも、発達障害と診断された(別れた)恋人の述懐に酷似していて、とても他人事には感じられなかったからだ。読めないものは読めないのに怠け者と言われ、理解できないものは理解できないのに興味がないと言われる。そうした言葉を浴びていると必然的にパニックに陥り、そのスパイラルは加速する。こうした経験を持つ人が身近にいたからこそ、描写のリアリティに胸が苦しくなる。
次に、約束された結末へ向かうしかない虚しさと、それでも希望を持とうとする切なさが、消化しきれない感情として重くのしかかる。思い出したのは荻原浩の「明日の記憶(光文社)」。この作品でも泣きに泣いた。全て忘れ去ってしまう無常さを受け入れるには、私はまだ若くて、それがいずれ来るという事実を強く恐れているのだろう。だからこそ泣くわけで、もしかすると、もう少し歳を取れば感じ方は変わるのかもしれない。
一方で、ステレオタイプな性的役割が顕れている点には注意したい。1959年、ウーマン・リブが起こる前の作品であるため、多少の仕方なさはあるだろうが、とはいえ読むときにはそうした側面に意識的にならなければならない。
そしてここからは、どうすればチャーリィと「対等な」人付き合いができるかについて考えたい。というのも、チャーリィと向き合うには、「心からの思いやり」だけでは事足りない。理論的、言い換えると、机上の空論で考えるならば、本書を読んでチャーリィの立場・視点を体験することで、エンパシーに近い感情を持てると考えるのが一般的かもしれない。
しかし、それは全くもって実際的ではない。例えば、綺麗好きな人間が毎日仕事から帰宅するたびに、チャーリィに部屋を荒らされている状況を想定してみるとする。この部屋の荒れ具合がマシになることは絶対にない。チャーリィと居る限り、年中無休で毎日必ず続くことが確定している。私には、綺麗好きな人がこの状況を受け入れられるとは到底思えない。綺麗好きという自身の認識を変える以外には方法がないのだが、生来染みついた綺麗好きという性質を変えるというのもまた至難の業であり、どうにも立ち行かなくなってしまう。チャーリィと向き合う上でのアクチュアルな問題がここにある。
それでは例えば「ADHDですけど、なにか?」で語られたような「猫を飼うつもり」のアプローチが一つの解答になるかもしれないが、先んじて結論を述べると、それは「対等」とは言えないだろう。「アルジャーノンに花束を」で言えばアリス的なアプローチだが、あくまでそれは「ケアする者/される者」の立場が明確に二分されており、心身ともに双方のパワーバランスがいびつになっている。チャーリィと何等かの関係性を育むという点では一つ良いかもしれないが、私が考えたいのはあくまで「対等」であり、その点では少し不十分なところがあるように思う。
ではどうすれば良いというのか。正直わからない。思えばチャーリィと対等に接した人物はいただろうか。個人的には、バートが一番近かったと思う。アリスのような献身もなければ、ニーマンのような対象化とも異なる、近すぎず遠すぎずの距離感が保たれていたように感じるからだ。知能が大幅に上昇したチャーリィには、自身の立場と考えをストレートに伝えつつも、前・後期チャーリィがテストを嫌がったときには無理する必要はないと思いやりを見せる。自身を押し付けず、他者にへりくだることのない、いわば「中庸」で「中動態」な在り方が「対等」を想起させるのだ。もちろんいくらでも反論は可能だとは思うが、少なくともバートの姿を通して、「対等」とは「近づきすぎず離れすぎず」が一つ大事な要素ではないかと考えさせられた。
ここまで色々と考えて、書いてきたのでよくわかんなくなってきた。
とりあえず、踊ろう。
そういえば「アルジャーノンに花束を」には、知覚と身体感覚を一致させる経験が少なかったのではないだろうか。もしかすると、本作に登場する人々に欠けていて、「対等」な関係のために足りなかったのは「踊る」ということではないだろうか。思想を自由に伸ばしていけるからこそ、我々はつい、自身の身体的な束縛を忘れてしまう。当然それが悪いというわけではないが、果てのない悩みに振り回される一因になることもまた事実である。
そうしたいわゆる「頭でっかち」な状態になったときに助けてくれるのが「踊り」である。全力で体を振り回すことで、自身の肉体の限界を知る。限界を知れば、自然と諦念が現れる。この諦めは、ネガティブな意味ではなく、自分自身を必要十分に受け入れるためのポジティブなものとして存在する。それは、「フィフティ・ピープル」や「危険なトランスガールのおしゃべりメモワール」、「安全に狂う方法」等で示された通りである。本作の各登場人物たちも、自身の身体では届きそうもないところへ思考を伸ばす前に、まずは踊ることで自身の限界を実感したほうが良かったのではないだろうか。チャーリィに関して言えば、フェイと酒を飲むだけでなく、下手だろうとダンスにも行くべきだったのである。ジョウ・カープも、チャーリィがずっこけるのを笑うのではなく、自分自身が踊るべきだったのだ。
アルジャーノン、チャーリィ、みんな、踊ろう!!!!
