死にがいを求めて生きているの

死にがいを求めて生きているの

朝井リョウ

中央公論新社

感想

 「すごい」と「もったいない」がごちゃ混ぜになる、情緒を激しく揺さぶられる作品。「螺旋プロジェクト」という企画での競作なので、他作品と足並みをそろえた、良くも悪くも整ったものになるかと勝手に予想していたのだが、まんまと裏切られた。朝井リョウらしさは全開だし、だけれど企画の趣旨にも沿っている。流石の一言に尽きる。

 というわけで、「すごい」のほうから語っていく。やはり何と言ってもその生々しさである。「健全に」競争する機会を奪われ、生きがいも見出せずに燻り続ける人々(堀北)には、自分かと錯覚してしまうほどのリアリティがある。「小説は鏡」という言葉が、村上春樹辻村深月を始めとして様々な人々によって口にされているが、今回身をもって体験したと言えるだろう。

 何がすごい(つらい)って、堀北が諸々自覚していることである。他者どころか自分のためにやりたいことすらなく、かといってただ生き続けるだけでは狂ってしまう。「生きるだけでいい」が絵空事でしかないことをしっかりと自覚した上で、「意識的に」種々の活動に没頭しているのだ。だから、智也が「生きるだけでいい」と声をかけても効果はないし、むしろ智也が生きがいを見失いかけるという予期せぬカウンターパンチが発生することになる。個人的に共感するところの多い堀北が、幼馴染の智也でさえも救ってやれない化け物になっていく様が、どうしても他人事には思えなくて、つらい。

 ここで「もったいない」話に入る。朝井リョウの描写力が凄まじいことは疑いようもないのだが、こと本作においては、堀北という存在に対して明確なアンサーが描かれていない。物語は、智也が「それでも生きていくしかない」という独白とともに、植物状態から目覚める瞬間で幕を閉じるのだが、むしろここからが本番ではないだろうか。

 というのも正直、問題提起の部分については、共感こそ覚えたものの、それが新鮮というわけではない。「トレンチコートマフィア(Creepy Nuts)」しかり、その楽曲の公認MADである「桐島部活やめるってよ」しかり、「行き場のない怒りのはけ口」を取り巻く作品はたくさんある。目の付け所としてはむしろもうスタンダードになりつつある箇所であり、作品としての甲乙は「生きがいのないままどう生きていくか」という問いに一定の答えを出すところに現れるのではないだろうか。

 そういう観点で本作を読むと、「それでも生きていくしかない」という非常にありきたりかつ何も解決になっていない言葉で締めくくられており、どうにも物足りなさを感じる。前提として反論したいわけではない。実際、人生はどうしたって続いていくし、そこに意味や価値を見出すのは紛れもない当事者たる「自分自身」であり、だからこそ、自分が自分を認められなくても「生きていくしかない」のだろう。

 とはいえ、そうやって凡庸な考えに落ち着くのは素人の妄想だけで十分である。小説という、鏡でありながらも異なる世界を体験させてくれる媒体には、もう少しだけ我儘を言いたくなる。読者には想像もつかないような、新たなる地平を見せてほしいと欲張ってしまうのだ。そういう贅沢な私の要望には応えきれていないところがあり、情緒を揺さぶられながらも、最後には「もったいない」と感じてしまったのである。

 まあ、でも、すごかった。最近お仕事とか人間関係とか色々としんどかったのだけれども、久々に小説に没頭できた気がした。散々ぱら勿体ないとか贅沢なことを抜かしたけれども、この本と出会えて、読めて、本当に良かった。