コイコワレ

コイコワレ

乾ルカ

中央公論新社

感想

 首飾りについての過ちが許されたと、あの子は勘違いして、つけあがるかもしれない。
 それでも言うのだ。次も自分から、リツに挨拶する。胸を張って、母と再会するためにも。

p.251 第九話「考」

 清子、あんた覚悟決まりすぎや……。

 この気持ちが少しでも揺らいだら、傷を見るのだ。この傷は首飾りができあがるまで治さない。かさぶたが覆ったら、わざと剥がす。いつだって血を流せるようにしておく。

p.269 第九話「考」

 リツ、あんたも覚悟決まりすぎや……。

 子供に大きな責任を押し付ける話が、たとえフィクションであっても好きではない。戦争はもちろんのこと、大人がしっかりせず、子供が責任の一端を担うという物語を消費するには、マインドが関西のおばちゃんになってしまっている。子供は遊んでたらええんよ。ようけ食べて、ぎょうさん寝て、元気でいるんが一番なんよと、そういう気持ちが強い。

 そんなメンタルおばちゃんの私としては、本作を読むのは中々心苦しい。小学六年生という幼さで親元を離れ、あるいは孤児であり、精神的な自立を余儀なくされる。ともに暮らす大人はいるものの、とはいえ拠り所としては心許なく、彼女たちは満足な愛情も得られぬまま生きなければならない。戦争の罪業が詰まっていて、ただただ、苦しい。

 とはいえ本作の素晴らしいところは、「避けられない対立(=海族・山族の対立)とどう向き合うか」に、一つの解答を提示していることである。それは、「挨拶」である。「自分が嫌な思いを引ぎ受け(p.256)」てでも、他者に「いい思いをさせる道を選(同頁)」ぶことこそが、対立しながらも争わないというアウフヘーベンだとしているのだ。

 これは「死にがいを求めて生きているの」のアンサーになるのではないだろうか。堀北に足りなかったのは、「自身の劣等感を引き受ける」覚悟だったのだ。目先の快楽を優先するあまり、彼は対立を煽り、より孤立していった。しかし、彼がすべきだったのは、自身を救うことよりもまず憎しみを抑えて挨拶することだったのである。清子は、嫌いな相手への挨拶で返事がなくとも、「お礼の言葉よりも、自分自身が望む行動がとれたことに(p.265)」満足している。堀北が得るべき生きがいは、ここだったのではないだろうか。

 確かに、苦しみを吐き出すことも大事である。「行き場のない怒りのはけ口」を溜め込んでいても、腐敗して手遅れになりかねない。ケースバイケースだというのは重々承知なのだが、こと堀北においては、こと海族・山族の対立においては、清子のような、「負の感情を自身が引き受ける」意志を持つことこそがすごく重要になのだと思う。「挨拶」をするという一見些細な行動であっても、それを嫌いな人間にまで分け隔てなく行うのは、大人だって容易ではない。それでも他者のために自身が不幸を被ることで、「ずっと続いていった先(p.279)」を紡ぐことができるのならば、堀北の渇望した「生きがい・死にがい」が得られるのではないだろうか。

 冒頭で、子供が責任を負う話は苦しいと書いたものの、一方で競作の面白さを骨の髄まで堪能させてもらった気がする。同じテーマを共有することで、作品どうしのシナジーが強まり、読み味の深まりがとんでもない。もちろん本作も「死にがいを求めて生きているの」も、どちらも単品で名作ではある。しかし、二作を並べて眺めることで、上記のような、新たな地平が見えてくることは間違いない。螺旋プロジェクト、恐るべし。もっと早く読むべきだった。

 ……だけど、だけど。

 結末、あんな無慈悲にする必要ありました!!!??? ガンギマリな覚悟を持った少女二人の交差の顛末が、無慈悲な東京大空襲なんて、あんまりだよぉぉぉおおおおお!!!!! いいじゃんハッピーエンドで。みんなで鍋囲むラストとかでいいじゃん!!! 子供に背負わせすぎだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!