イクサガミ 人

イクサガミ 人

今村翔吾

講談社文庫

感想

 最終巻を今年の八月に残しているのに、集大成のような一冊。旅の重み、想いの強さ、時代との折り合い、相反し矛盾する葛藤、それらすべてが剣となって火花を散らす。総頁1,000を超える積み重ねが心に響いて、もうたまらない。

 というわけで前巻同様、印象的な人物について語る。「人」はもう、甚六と無骨の巻だった。

甚六

 甚六の人柄の良さは言うまでもない。きりがないほどの具体例が、本書には描写されていて、読んだ人ならば全員が賛同してくれるだろう。兄弟妹想いで、鍛錬を怠らず、深い洞察力を持つ。好きにならないはずがない。

 しかし、私が語りたいのはそこではない。横浜戦に至るまでの過程にこそ、甚六の良さが詰まっているのではないだろうか。というのも、甚六は横浜戦までほとんど登場しないのにも拘らず、愁二朗や彩八を始め、多くの人の口からその姿が語られる。つまり、その場にいなくても、多くの人の心の中に住み続けられるような人間ということなのである。

 人の心に残り続けるというのは、たとえ人格者でも中々難しい。極端な話だが、単に優しいだけでは、影が薄くなりがちである。優等生より問題児のほうが先生に構われるように、優しいだけの人間もまた、人々の心には残りにくい。つまり、誰かの心を占めるためには、優しいだけではない、その人の胸を打つような何か(例えば熱量)が必要なのだ。

 そういう意味で、甚六はただの好青年ではない。眩しくなるほどのまっすぐさ、涙を流すほどの熱さ、全幅の信頼を寄せられるほどの成熟が、彼の中に溢れんばかりに詰まっているのだ。だからこそ多くの人の心の中に居続けるのだし、私もまた、イクサガミの中で彼を贔屓目に見てしまうのだろう。

 ……だからこそ、だからこそその最期が、あまりにも悲しくて、あまりにも辛くて。正直フラグは立ってたので死亡する展開自体に驚きはなかったけれど、それでも苦しくなってしまう。

 甚六、今はただ、安らかに……。

無骨

 たぶん、私はぶれない人が好き。Vtuberの名取さなが好きだったりするのだけれども、彼女は活動開始から7年経っても、良い意味で初期のおもかげを残していて、自身のなりたい姿を目指してひた走る様に惹かれているところがある。ワタシノナリタカッタワタシノミライフそのままの人間だ。

 無骨にもそういう愚直さがあって、所業は最悪なんだけれども、憎めないし、むしろ魅力的に感じてしまうところがある。特に本書では、蒸気機関戦で愁二朗が無骨の無邪気さを「ただ純粋に遊びを楽しむ童のよう(p.515)」だと感じるシーンが象徴的で、彼の根底には、善悪を超えた純粋無垢な希求があったのだろうと推察できる。

 彼は別に、誰かを不幸にしたくて人を斬っていたのではない。自分よりも強い人間と、火花を散らして遊びたかっただけなのだ。これは彼の行いを擁護するものではない。民間人に危害を加えている時点で許しがたいところは確かにある。しかしそれでも、彼の胸中を想うと、憤りよりもまず、愛おしさと哀しさが湧き上がってくるのだ。

 ……これあれだ、少佐(HELLSING)だ。

 少佐もまた、遊ぶように戦争をし、自身の絶命の瞬間に撃った銃弾が当たったことで、「初めて当たったぞ!」が遺言となった男である(厳密にはもう少しだけセリフが続く)。風貌や物語の背景は全く異なるけれども、二人はどこか似ている。子供のような、ただまっすぐと己の欲求を満たし続ける無邪気さが、社会で疲弊したおじさんの心に刺さるのだろう。無骨にしても、少佐にしても、本当に素敵な役を演じてくれたわけで、ただただ、お疲れ様と言いたい。

 以上。8月刊行予定の最終巻が楽しみでしかたない。読み終えてしまうという悲しさもあるけれども、大団円を迎えた愁二郎たちを読みたいという気持ちもある。アンビバレントな感情を、あと二か月弱抱えながら待とうと思う。