感想
「優しい地獄」を読んだ際、「イリナ・グリゴレ氏の文章は、とにかく油断できない。」と書き、その理由を、「彼女の人生の断片が、モンタージュのように切り貼りされて、目まぐるしくその景色が切り替わる」からだとした。決してそれが間違っているわけではないのだけれども、それ以上に納得できる理由を、上記の対談イベントで見出した。
それは、「ジャッジしない」ということである。
その後の人生は枯れた葉っぱのようにただ、たくさんの枯れている葉っぱがある土の上に落ち着いた。
p.187 蜘蛛を頭に乗せる日
ここではある一人の女性の人生について著者は語っているわけだが、あくまで「ただ」「ある」ということしか書かれていない。それはつまり、彼女の人生について、著者がいかなる評価も下していないことを意味する。あくまで実際に立ち現れているものだけを語ることで、著者のバイアスのかからない、ありのままの姿が映されているのだ。
また、続く以下の文章も同様である。
ある日、突然自分が小さな女の子だと思い込んで走って森に入った。そこには鉄砲を持った男と殺されたばかりの鹿がいた。遠くから「誰かが鹿を殺した」と大きな叫び声が聞こえた。
p.187 蜘蛛を頭に乗せる日
三つの文章全てが、「事実」のみを書いており、ここに何等かの「物語」は一切見られない。読み手が様々な背景を想像することはできるが、著者は一切それをせず、あらゆる価値判断を排した文章を書きあげている。対談イベントでは小川氏がこれを「押しつけない眼差し」と表現しており、事実を過不足なく記そうとする姿勢が伝わった結果と言えるだろう。
そしてここに、私が「油断できない」とした理由があると思う。つまり、日ごろから「物語」に慣らされている私は、ややともするといかなる文章でも物語のように読んでしまう傾向があり、それを許さない本書には、ネガティブケイパビリティとしての違和感を覚えるのである。本書は物語でなく現象である。だのに、私が物語脳を持っているせいで、油断するとすぐに物語らしさを見出そうとしてしまい、結果として文字が情報として入って来なくなるのだ。
とはいえこの「油断のできなさ」は生きる上で非常に重要である。インターネットが発展し、AIが跳梁跋扈する現代において、わからないことを検索して3秒でわかった気になることはできる。しかし、種々の問題はそれほど単純でないし、単純であればこれほど厄介な世の中になっていない。事実と、バイアスと、評価と、その他様々な因子を分けて考え、想いを馳せつつも冷静に読み解いていく、そうした姿勢が人生を豊かにために必要で、本書はそれを実践した作品と言えるだろう。
著者は冒頭で、「人間は目で見えないものが確かに怖いけど、この私たちが生きる今の時代をこうした作品で表現できたら恐怖の代わりに違う感覚が生まれるに違いない」と確信している。そして実際、著者の「押しつけない眼差し」によって、既存の物語では絶対に語られ得ない視点での現象が浮かび上がり、結果として新たな感覚を醸成させることに成功している。そういう意味で、本書は革新的な名著であり、内容のみならず、その姿勢にまで価値のある作品と言えるだろう。