じんかん

じんかん

今村翔吾

講談社文庫

感想

 良い作品ではあると思うが、後半からの中だるみが尾を引いて、最終的な感情は少し微妙なものになってしまった。また前半で明かされる「武士」「人の欲」という打破すべき目標に対して敗北する形で終わってしまったのも、史実ゆえに仕方ないとはいえ、物悲しい想いになってしまう。文化祭は準備しているときが一番楽しい現象と同じで、大きな目標に向かって奮起する様が胸を打ちつつも、儚い幕引きには一抹の寂しさを覚えてしまったのである(ここまで書いて気づいたが、そうした動と静のコントラストは作品の質の高さでもあるかもしれない)。

 あくまで己に浴びせられる悪評は全て引き受ける覚悟だったと思える。

p.488 第七章 人間へ告ぐ

 「コイコワレ」を思い出す。九兵衛もまた、争いのない世の中のために元長の提示した「武士を滅ぼす」を心に掲げ、その実現のためには幾多の汚名を被って生き続けた。彼の真意を知るものはごくわずかで、同志の少なさゆえに命を散らす者も少なくはない。

 では、九兵衛はなぜ「悪評は全て引き受ける覚悟」を持つことができたのだろうか。蓋し他者への「愛」があるからだろう。多聞丸や日夏、元長など、彼には自身よりも大切な他者が存在している。そして、その大切な存在が虐げられる世の中を耐えがたく思ったからこそ、数多の苦しみを引き受けたのである。(ジェームズ・ガンの「スーパーマン」もこれに近い部分があると思う。最近観て記憶が新しいだけだからだろうけど、日記的にメモ)

 そしてその愛は連関する。様々な人からの愛を受けて、苦しみを引き受ける覚悟を持つようになった九兵衛は、自身もまた在りし日の彼らのように他者へ愛を注ぐ。血生臭い乱世で、その愛が直接的に実を結ぶことはない。しかし、又九郎のように、彼の姿を聞くことによって感化される者もいる。粟田口吉光が元長、九兵衛、又九郎と経たように、愛もまた、人々の手から手へと受け渡されていくものなのだ。

 ここまで書いていて気付くのは、本作は壮大な「愛」の物語でもあるということ。冒頭では尻すぼみと書いたが、それはあくまで九兵衛の一生にのみ焦点を当てたときの話。戦国時代、ひいては人間(じんかん)というスコープに照らし合わせると、どれだけ人々が対立しようとも存在し続け、受け継がれる「愛」があることに気づかされる。決して綺麗ごとではなく、誰かを想って苦しみを引き受ける覚悟を持てる、切な願いが、本作には500頁を超えてたっぷりと描かれているのだ。

 冒頭と感想が全く違うものになってしまった。終盤ダイジェストっぽくなって中だるみしてしまっていたのは事実だけれども、とはいえ、感想文を書くことによって見つけられたものがあったような気がする。(とはいえ2週間かけて読みきったので、ようやく終わった~~~という気持ちが強い。お疲れ様!!!)