
世界 2025年9月号
岩波書店
感想
「最悪の選挙」が残したもの(安田浩一)
ルポだから当然なのだけど、踏み込んだ議論や考察がなくて勿体ないように思う。白熱する排外主義と、恐怖する外国人。断絶は深まり、そこで狂ったように笑うのはポピュリズムの権化たる極右政党のトップたち。わざわざ本書で読まなくても至る所で見聞きする内容が描かれており、もちろん雑誌という紙メディアで書かれる意義を踏まえつつも、少し物足りない感も否めない。
私は、排外主義は突き詰めれば、国民全体に蔓延する貧困が原因だと思っている。経済的に余裕がなくなり、それに伴って心身の余裕もなくなる。すると視野が狭くなり、貧困の根本原因を突き止めるよりも先に、わかりやすく標的にしやすい外国人をターゲットにする。概ねそういう流れだと思っているが、実際のところはわからない。こういう部分を、ルポによって明かしてほしかったのが、私の我儘な願いであった。
とはいえ、はっとさせられる良い文章もあったので以下にメモしておく。
「普通」であるからこそ、罪を犯す者、地域のルールを無視する者もいるだろう。それが社会というものではないのか。犯罪の抑止をアジェンダとして取り上げることはかまわない。だが繰り返すが、犯罪者として検挙される者のほとんどは日本国籍の日本人なのだ。外国人だけを排除の対象とするのは、差別以外のなにものでもない。
p.55
ジェノサイドの種は「平時」に生まれる
知らないことが多すぎて、自分の不勉強を恥じるあまり。ジェノサイド条約の存在も、日本がそれに批准していないことも、東欧で多発する紛争も、ジェノサイドの十段階も、文化的ジェノサイドも、対人地雷条約も、ロシア周辺諸国がそれに脱退したことも、犠牲者意識ナショナリズムも、何も知らなかった。SNSで毎日見かけるけれども、むしろ日常的に見るからこそ、遠い国のいつもの風景として流してしまっていたことが浮き彫りになったように思う。
一方で思い出すこともあった。ジェームズ・ガン監督のDC映画、「スーパーマン」である。既に監督本人の口から述べられているように、異星人として地球で生きるスーパーマンは、移民のメタファーとして描かれている。そんな彼は作中、ヴィランであるレックス・ルーサーに対して、「私も人間であり、善くあろうと日々もがいている(私のうろ覚え意訳)」と発言する。これはまさに、本記事内の「人々の日常を伝えようとする動き(p.202)」と合致する。
ジェノサイドの十段階は、「『彼らと我々』という『二分割』(p.201)」から始まる。二分割できてしまうのはつまり、「彼ら」の存在が「我々」と異なると思い込むからであり、だからこそ、「彼ら」の日常を知り、「彼ら」もまた「我々」の一部であると信じられることがジェノサイドを起こさせないために大事なのだろう。スーパーマンのあの叫びは、現代でジェノサイドや差別に晒される全ての人々の声に重なる。
そこで私が気になるのは、どうすれば「我々」が「彼ら」のことを、犠牲者意識ナショナリズムに依らず、知ろうと思えるようになるかである。もちろん、「日常を伝えようとする」ことは大事なのだが、受け手側に興味関心がなければ響かない。「最悪の選挙」でも少し書いたが、興味関心のなさは生活の余裕のなさに比例すると私は考えている。結局、余裕が全てなのだろうか。不勉強な部分を学びながら考えていきたい。
本と책 第28回 ~桃のような人~
素直で、想いが詰まった文章。樋本氏が金代表に桃を一箱送ったように書かれている。
「世界一流エンジニアの思考法」や「会って、話すこと。」で、素直な文章の良さを書いているが、本記事のそれは少し異なる味わいがある。というのも、比喩や表現が秀逸なのだ。「真夏の灼熱地獄に届く桃(p.259)」のことを金代表は「まるで人と人をつなぐやさしいお守りのようだ(同頁)」と書いているように、本記事では流石出版社代表とも感じられる秀でた文章力を感じられる。
そうした飾り気があってもなお素直だと感じられるのは、書き手たる金代表が、その表現を、その表現しかないものとして衒いなく使っているからだろう。私は金代表のことを何も知らないけれども、たぶん、普段から記事のような言葉遣いなんだろうなと思う。文章に馴染んだ言葉たち、私もそういう文章を書きたい。
共感は敵だ
何回読んでも呆れるばかりのトランプの横暴。と、思ったらすごい人がいた。彼の名はゾーラン・マムダニ。33歳にしてニューヨーク州議会議員であり、先月7月、市長選の民主党予備選で勝利を収めた人物である。彼の来歴は多様性そのもので、「翻訳する私」のジュンパ・ラヒリを思い出す(もちろん質的には全く異なるということは理解した上で)。 展開するキャンペーンも面白く、今後の活躍に注目したい。
フェイクの時代に抗して ~デジタル・アーカイブの力~
一例ですが、「ナガサキ・アーカイブ」をつくる際には、証言や写真をマッピングしていく作業を続け、それらと向き合う緊張やストレスからか、私の口のなかは口内炎だらけになりました。しかし、そうした経験こそが有益で、貴重な学びにつながってもいると思うのです。それは、自分の心を通過させて気づいたことや、得た新しい知識を、人に伝える喜びにつながります。
p.219
AIには出力できない文章の良さが、全き詰まっている。「心を通過させる」ということは、AIには絶対にできない。それは、心の存在を問うとかいう話じゃなく、AIには食事が不要だが、人間は動植物を咀嚼して自身の体に吸収するという対比と同じなのである。人間は、経験を咀嚼して自分のものにする。そこには、マルコフ連鎖では表現できない何かが、きっと、確実に存在しているのだ。
この話だけでも私は十二分に感動したというのに、その後のマインクラフトでの平和学習でさらに驚かされる。当事者と会話しながら原爆投下前の街をつくりあげることで、当事者への解像度が上がり、そこが一瞬にして破壊されたことを肌身をもって実感できるようになるというのだ。自身の生まれる前の出来事を、マインクラフトに落とし込むことで自分事にさせるアイデアは膝を打つばかりで、もう、ほんと、拍手を送りたい。
本記事は、平和実現に対する示唆に富んでいる。経験する喜びと、それを他者へ伝える喜び。当事者とともに創り上げ、自分事のものとして吸収すること。記事の内容はデジタルアースやAI利用、マインクラフトなどテクノロジーに依拠しているけれども、それらは決して必要不可欠というわけではない。読書会が最たる例で、本を読んで得た経験を伝える喜びが隣の人へと連鎖していく在り方は、本記事の内容によく似ている。
経験する喜び、創り上げる喜び、それらを伝える喜び。平和のための大事な3要素、努々忘れずにいたい。
脳力のレッスン ~特別篇 戦後80年への沈思熟考~
併読している「『右翼』の戦後史(講談社新書)」に通じるところがあり、有難い学びになる。平成二桁生まれ、テレビを見ずに生きる身からすると、戦前の「尊王」の姿勢は中々理解しづらい。しかし、実際に存在していたわけで、そこにはしっかりとルーツや経緯がある。
では、尊王を掲げて(あるいは掲げなくても)排外主義を声高に叫ぶ人々に、どう言葉を紡げば良いのだろうか。ここ最近(8/29)のホットトピックではJICAの存在意義について問う声が多く上がっている。それに対して多くの人がJICAの国際社会における重要性、日本企業の海外進出にいかに貢献しているかなどを説明しているものの、当然排外主義の面々は聞く耳を持たない。彼らの根本を知ることで、より効果的なアプローチを取れるようになるだろうか。