創価学会の研究

創価学会の研究

玉野和志

講談社現代新書

感想

 本書のテーマである、「なぜ人は創価学会を胡散臭く感じるのか」の解答は、「なぜ推し活やオタクを気持ち悪く思うのか」の解答と一致しているように感じた。つまり、未知と内輪ノリによる嫌悪感が、エコーチェンバー的にそれらの炎上事件へと目を向けさせ、結果的に悪印象が加速するということだ。そして逆もまた然り、実態を知ってしまえばなんてことないと思えるのも両者に共通しており、本書は創価学会の実態を知ることで、事の善し悪しはさておき、反射的に感じる嫌悪感を払拭する事ができたように思う。

 というかそもそも「創価学会」という名前が相当悪いと思う。「価値を創る」なんて、情報商材屋が異口同音に喧伝する文句だし、「学会」というのもまた、某芸人の「YouTube大学」という名前を始めとして、絶妙に自尊心と帰属意識をくすぐる言葉である。したがって私の創価学会への認識は「なんかよくわからない人たちがなんかよくわからない理由のもとに集まってなんかよくわからないことをしてなんか笑ってる」というものであり、日蓮宗をルーツに持つ歴とした宗教だと思っていなかった。せめて「○○教」という名前であれば、多少なりとも印象は違ったかもしれない(でも、創価教はより胡散臭くなっている気もする……)。

 また、本書を読んでいると、高校時代に通っていた東進ハイスクールを思い出す。そこでは「利他」という言葉が耳に胼胝ができるほど口にされており、正直私は辟易していた。というのも、あくまで「受験に合格するためには利他的にあらねばならない」という文脈でのみその言葉が使われていたのであり、利他の本質に想いを馳せることは皆無だったのである。つまり、極めてプラグマティックであり、そこが創価学会の「勤業」に近いような気がする。結果的に幸せになれれば結果オーライなはずなのに、「利他」や「勤業」という手段が目的と化し、たとえ幸せであってもそれらの行いが足りなければ叱責される。まあ、創価学会に限らずどの宗教も資金繰りをせねばならないので同じかもしれないが。

 ただ子供の修学旅行で寺社仏閣を参拝できない件は少し考えさせられるところもあった。なぜ、日本には信教の自由があるにも拘わらず、寺社仏閣といった宗教に関連する施設に赴くプログラムが組み込まれているのだろうか。蓋し多くの日本人の信仰心が薄く、寺社仏閣を一観光地として捉えているからなのだろう。

 しかし根本的には、「チョコレートを食べたことがないカカオ農園の子どもにきみはチョコレートをあげるか?」における「ブラジルから来た転校生のエレナに校則違反だからと耳のピアスを外させるべきか?」と同じではないだろうか。創価学会の実態を知らない、かつニュースで見かけるのは悪い内容ばかりだからこそ、そこで軋轢が生まれてしまうのだろうが、信教の自由を掲げる国とは思えない不寛容を垣間見た気がする。

 それから政治についても、創価学会とは切っても切れない関係だが、ここはもう少し勉強してから色々書きたい(というか書ける材料が今の私の中にあんまりない)。そもそも公明党は創価学会が擁立した政党という事実すら知らなかったのだから、あれこれ語るのは性急である。幸いにして、日本の政治の本はいくらでもある。今月で25歳になったが、一社会人として政治についてきっちりと喋れるようになりたい。頑張る。