感想
私と同じような筋疾患で寝たきりの隣人女性は差し込み便器でトイレを済ませるとキッチンの辺りで控えているヘルパーを手を叩いて読んで後始末をしてもらう。世間の人々は顔を背けて言う。「私なら耐えられない。私なら死を選ぶ」と。だがそれは間違っている。隣人の彼女のように生きること。私はそこにこそ人間の尊厳があると思う。本当の涅槃がそこにある。私はまだそこまで辿り着けない。
pp.79-80
不思議なバランス感覚に戸惑っている。前評判で、読書マチズモの部分だけ知っており、実際読み始めは健常者へのルサンチマンを放出するような露悪的な語りだったが、最後には上記のような達観も垣間見える。せむし(ハンチバック)として「ねじくれられないでいられるわけもない(pp.23-24)」ことを自覚しつつ、そういうねじくれの虚しさにも気づいており、様々な情緒がぐちゃ~っともにゃ~っと混じっているという点で、純文学らしい純文学と言えるのかもしれない。
本書を読んで真っ先に思い出すのはやはり「逝かない身体」である。上記の「隣人の彼女のように生きること」とはまさに、当書で語られる川口氏の母の姿である。川口氏と上野千鶴子氏の対談でもあった通り、健常者と障碍者、あるいは老若は地続きであり、決して隔絶された存在ではない。だからこそ、「私」は「まだ」辿り着けていないだけであって、到達不可能な場所として位置付けることはないのである。
このような「逝かない身体」と共通する部分も随所に垣間見えるからこそ、中途の悪態も、不快感だけで終わることがない。むしろ、「サンショウウオの四十九日」でも書いたような、どんな人間でも普遍的に持ちうる不満や欲求に、(その内容はどうあれ)どこか親近感を覚えて、気持ちの良い表現はこれっぽっちもないのに、なんとなく悪くない気分にさせられる。本書のような棘のある言葉はあまり好きでないはずなのに、こういう気分だから、なんだかよくわからない不思議な浮遊感を覚えるのだ。
私はまっすぐな作品が好きだが、案外、これもまっすぐと言えるのかもしれない。どんな思想であれ、自身のやりたいことを、やれる範囲で実行する様は、たとえねじくれていたとしても嫌いにはなれない。ちょっと過大評価しすぎな気もするが、どうにも、良いと思えてしまう、やっぱり不思議としか形容しようがない作品である。
