「右翼」の戦後史

「右翼」の戦後史

安田浩一

講談社現代新書

感想

 右翼は国家権力の手足として振る舞うだけでよいのか。そんな思いを抱えながら本書を書き上げた。右翼は社会の矛盾に向き合うことから、足場を固めたはずだ。市民社会やマイノリティを威嚇するだけの右翼など、あまりに惨めではないか。不公平、不平等への涙から生まれたはずの右翼が、日本社会を、地域を、人の営みを壊しているような現状が残念でならない。

p.277 おわりに

 右翼への認識が改まった一冊。

 最近どの感想文でも書いているが、「世界 2025年9月号」をきっかけに、先の参院選における某S党支持者について考えている。本書に照らし合わせると、彼らは右翼ではなく、自身の快不快で発言するただのレイシストでしかないことがわかった。「戦後史」と表題にあるくらい、右翼には歴史があり、その渦中を生き抜いた者は、(善し悪しはおいておくとして)確固たる信条を持っていたが、そうしたものを持たず、ヘイトスピーチの「大義名分(p.253)」として右翼を利用するネトウヨはもはや、ただヘイトをまき散らす人でしかないのである。

 とはいえ、戦後の右翼には軸足がないような印象を受ける。戦前は天皇のもとの平等を掲げていたものの、その存在が敗戦によって人間であると知らしめられて、実質的に彼らは拠り所を失った。その結果、右翼は「常に権力の近場にいるしかなく(p.78)」、反米から親米への転換に際して「その逡巡や苦痛を表現したものは、ほとんど存在しない(同頁)」のだろう。昨今の排外主義の底知れなさの背景には、こうした戦後の右翼の足取りも少なからず影響を受けているようにも思える。

 一方で、右翼の歴史の中で、多様性が存分に見られるのが面白い。「国家権力の呼びかけでつくられた側面もある(p.124)」任侠系右翼もいれば、「土に親しみ、太陽を崇めていけば、それだけで人は幸せになれる思想(p.115)」をもつ協和党のような右翼もいる。両極だけ見ればその存在はほとんど別物で、一口に「右翼」と表現すると取りこぼしてしまうことが多分にあることを実感した。著者は「右翼は極めて心情的なものである(p.26)」と評しているが、好意的に見れば、だからこそこれだけの柔軟な広がりを見せているとも捉えられる。

 このように日本の右翼は、一見すると掴みどころのない存在のように思える。しかし、本書を通して勢力を細分化し、それぞれを仔細に眺めてみると、それぞれに何かしらの歴史や背景があることがよくわかる。正直、固有名詞が多すぎて読むのがしんどく、理解は浅い自覚はあるのだけれども、よくわからないと感じていた右翼を少しだけでも知ることができたという点で、読めて良かった一冊である。