
イン・ザ・メガチャーチ
朝井リョウ
日本経済新聞出版
感想
圧巻……。紛れもなく、圧巻……。
圧巻過ぎて、もはや何から語れば良いのかわからない。とにかく気持ちが冷めないうちに書く。したがって、構成はぐちゃぐちゃ、文章も乱れに乱れているが、それだけ昂っていたということで何卒ご容赦いただきたい。
まず、本作は私にとって徹頭徹尾完全無欠だったことを述べたい。創作、こと連載漫画には、始めのほうが微妙だったり、終わりが微妙だったり、中だるみがあったり、そういう勿体なさがしばしば散見される。最近読んだ「イクサガミ 神」が最たる例で、1~3巻は抜群に面白いのだけれども、最終巻だけのっぺりとした仕上がりにつき、手放しで賛辞できないのである。当作に限らず、長編ものは得てして、こうした勿体なさに見舞われやすい。
一方で「イン・ザ・メガチャーチ」は、序盤中盤終盤隙がなく、ずーっと面白い。導入は各世代の「推し活あるある」が滝のような勢いで展開されて、相好を崩しながらすっと物語へ入っていけるし、三人の視点を群像的な形で細かく順繰りに描いていくから途中でだれることもなく、ラストはほんの少しの希望を残すような親子の再開で終わる。このように本作は、頭からお尻まで「飽きる」「つまらない」といった感情を持たずに読み通すことができるのだ。
実際、私は本作をほとんど休憩なしで読んだのだから、面白さは折り紙つきである。もはや本作の登場人物に負けず劣らずのアディクションを発揮しており、まさに「脳を溶かす」ように読了まで突っ走ったのだ。走り切ったあとの心地よさ含めて、各登場人物の心情と被っており、皮肉なものだなと我ながら呆れてしまう次第である。
ただそれでいて、推し活を巡る矛盾をアウフヘーベンしているのだから、もう、最高である。というのも、視野を狭めて何らかの「物語」に没頭するからこそ、自身の弱みを曝け出すことができ、他者との連帯へ一歩踏み出すことができると書いているのだ。
例えば久保田慶彦の場合、始めは友達がおらず、孤独を深めており、そしてその孤独への対処法もわからずにいた。しかし、294頁前後での道哉との交流を通して、弱みを見せること、何の意味もない会話を続けることが、いずれは連帯に繋がることを発見する。作中での久保田と道哉の連帯は、久保田の暴走によって消滅してしまったけれども、彼は最終的にその連帯の方法を娘に向けるべきだと気づいた。二人の連帯が達成されるところまでは描かれていないけれども、最後の最後で、娘が父のほうへ振り返ったという点で、たとえそれが画面越しだったとしても、僅かながら希望が残されていると解釈して良いのではないだろうか。
それにこの「弱みを見せ」「何の意味もない会話」をしながら連帯するという在り方は、作中でも明言されている通り、ケア的な側面が強く、登場人物たちの行動の結果如何を問わず、重要な示唆となることは間違いない。実際「聞く技術聞いてもらう技術」では、本作の274頁から292頁で道哉が語ったこととまんま同じ内容が論じられている。「聞く技術聞いてもらう技術」における「聞く技術」の本質は「『なにかあった?』と尋ねてみ(p.245)」ることだし、「聞いてもらう技術」の本質は「『ちょっと聞いて』と言ってみ(同頁)」ることであって、それを実行するためには、恥を忍んで、勇気を出して、気まずさに耐える必要がある。久保田に友達がいなかったことも、道哉や青木と雑談できるようになったのも、ここに起因するのだ。
そんなわけで、本作は朝井リョウにしては希望に満ちた作品のように思える。何しろ、表題でさえ推し活を揶揄していることがすぐにわかるというのに、結果としては、推し活によって見えてくる地平があることを示しているのだ。言い換えれば遍く人々の相互理解を促していると読み取ることもでき、散々推し活を皮肉っていた割には、他者に優しくなれるような作品に仕上がっている。もはや情緒はジェットコースター。めちゃくちゃ揺さぶられたけれども、読了後の今、気分はめちゃくちゃ爽快である。
とはいえみんな本を読もうよ…….。たぶん読書が、一番健全なアディクションだよ……。
余談1
本作を、浅野いにお作画の漫画で読みたい。あるいは、新進気鋭のアイドルたちで配役を固めた実写映画になってほしい。
余談2
眠い!!!!朝4時過ぎ!!!! 全然書き足りないけど、終了!!!!