ティファニーで朝食を

ティファニーで朝食を

トルーマン・カポーティ, 村上春樹

新潮社

感想

ティファニーで朝食を

 すっごく意外な終わり方をしてびっくりしたのが第一の感想。映画「バビロン」のネリー・ラロイを彷彿とさせる奔放な女性を、心の底の虚しさから引き上げるためには、誰かが途方もない時間をかけて辛抱強く付き合い続けるしかないと思っていたからだ。本書は、いわゆる「基底欠損」を持っている人間の行く末を描いた物語であり、ホリー・ゴライトリーに真の理解者がいない(読んでいる間は少なくともそう思っていた)ために、悲劇的な終わり方を迎えると思っていたのである。

 ところがどっこい、彼女はブラジルにて「ティファニーほどじゃないけれど、それに近い(p.137)」居場所を見つける。いや、実際は本当に見つけたとは明言されておらず、彼女の住所は主人公フレッドのもとに「とうとう届かなかった(同頁)」。しかし、彼女のメタファーである猫が「落ちつき場所を見つけることができた(p.138)」と描写されているため、おそらくそう判断しても間違いではないだろう。以下はこのような読みを前提として書いていくものとする。

 まず何よりも、私はこの終わり方が好きである。ポイントとしては、「ティファニーほどじゃない」と彼女が手紙に書いていることだ。彼女は逮捕されたあとの病院にて、「私はランクを落としてまで生きたくない(p.129)」と言っているが、最終的には、多少の妥協を許しているのである。物語の9割はずっと高慢だったけれども、最後の最後に、ほんの少しだけ彼女は変わることができたわけで、こうした成長譚は道中がなんであれ、なんだかんだ胸を打ってしまうのである。

 そうした心の変化が、温かな光景で綴られているのだから、なおさら読後感は爽やかなものになる。彼女の飼っていた猫は「鉢植えの植物に両脇をはさまれ、清潔なレースのカーテンに体のまわりを縁取られ、いかにも温かそうな部屋の窓辺に(p.138)」鎮座していたのである。ホリー・ゴライトリーもまた、そうした場所に辿り着けたのではないだろうか。アフリカをほっつき歩けるくらいに金持ちになったと冒頭で推測されるのも、好意的に解釈すれば、こうした心の成長があってこそのものだと考えられる。

 とはいえ、流石にラストで突然改心するような展開には無理があるのでは?とも思ってしまう。「杉森くんを殺すには」的に言うならば、彼女は散々ぱら傷つけられてはいるけれども、一方で多くの人を傷つけてもいる。何ならエンディング直前に猫を虐待しているわけで、そんな人間がブラジルという遠い異国で腰を落ち着けるというのは、少々虫の良すぎる話でもある気がする。何十年たってもフレッドやベルの心から彼女が去らないほど強烈な印象を与えているのに、本人はアフリカをふらついているのも、捉え方によっては何勝手にひとりだけ良い想いしてんだともなるのである。

 結局、この物語の終わり方が良いのかどうかわからない。しかし、よくわかんないことも含めて、私はこの物語が好きである。一番最後の文章は、「そこがアフリカの掘っ立て小屋であれ、なんであれ(p.138)」という言葉で締めくくられるが、この「なんであれ」に、言葉では説明しきれない色々な要素が凝縮されているように感じるからだ。

 フレッドは、ホリーのことを愛していた。ただ一方で、ホリーのことを憎んでもいたのではないだろうか。熟年夫婦と同じで、どれだけ親交があろうとも許せることと許せないことがあり、一言では表せない感情を彼は彼女に対して持っていたと思われる。ゆえに彼が彼女の安否を想うとき、「なんであれ」というファジーな言葉が出てくるのだ。そしてこうした揺らぎからは、文学の豊かな香りを嗅ぐことができ、それゆえ彼女の身勝手な奔放さも、不快にならないギリギリで許せてしまうのだ。

 ここまで色々書いて思うのは、やっぱり私はこの作品が好きであるということだ。ん?と思うようなことも多々あり、手放しで賞賛できる作品ではない。それこそ、ニューヨークでは彼女の心が一切変化しなかったのに、ブラジルへ行った途端温かな居場所を見つけるのは、描写のバランスが極端で、少々投げやりにも感じてしまう。とはいえ、私の心にじんわりと残るものがあって、それは決して100%ポジティブなものではないのだけれども、「なんか良い」と思えてしまうものなのである。

 なんか良くわかんないけど、なんか良い。予想以上に本作を味わうことができて、すっごく充実した気持ちである。こういう感覚は大事にしておきたい。他の人がこの作品に悪感情を持っていようと、なんであれ。