感想
あまりに性的で、あまりにまっすぐな、歪で素朴なひと夏の儚い物語。
やっていることはずーっとセックス。とにかくセックス。セックス、セックス、セックス。だのに、そこには、夏休みを経てひとまわり成長した男の子の姿が確かにあって、そのアンビバレントな読み味に心地よく翻弄される。
友人のメグミやシンヤの言うように、リョウのやっていることは表社会で胸を張って言えることではないかもしれない。しかし、そうした社会通念を抜きにしたとき、彼の姿は昼の世界で生きる人々よりも瑞々しく、また堂々としている。好奇心と相手への敬意を両立しながら働き、充実感と仲間を得ていく過程は爽やかで、そこに「ノルウェイの森」で感じたような嫌悪感は一切ない。
特に印象的なのは、アズマがリョウについて話すシーン。
「でも、やっぱり今日話してよかった。ぼくがこんなことをいうと、引いちゃって変態扱いする人が多いんだけど、リョウさんはいっしょに考えてくれるでしょ。そういうところがいいバランスのとりかたなんだよね。そんなふうにやわらかな人って珍しいんだ」
p.147
このセリフの「やわらかな人」という部分が、リョウ、ひいては本作を象徴的に表現しているように思う。彼とこの作品は、何らかの価値判断を下さないのだ。種々様々ある性的嗜好や考え方に対して、それを受け止めたうえで、その善し悪しは必ず留保する。大きくてふかふかのクッションに飛び込むように、どれだけアブノーマルな嗜好も一旦は優しく受け止められ、抱きしめられるのである。
ここには、要約できない優しさがあると思う。言ってしまえばこれは「みんなちがってみんないい」ということなのだが、その一言を受け取るだけでは、これほどまでの感動を味わうことはできなかっただろう。この概念をベースにした上で、確かな実践と過程があるからこそ、私は真に本作を「やわらか」だと感じることができるのだ。
ここまで書いてきて私が思い出すのは、私の今年のテーマである「ケア」だ。ケアの文脈でも、「やわらかさ」は重要である。有名なところで言えば、テイラーの「多孔的な自己」がそれに当たる。対比される「緩衝材に覆われた自己」では、文字通り自己は緩衝材に包まれており、個人として独立していることが強調されている一方で、「多孔的な自己」は他者や環境との関係性が重視されている。
いわんやリョウの存在は多孔的である。既に書いてきた通り、数多の性的嗜好に対して、抵抗を覚えることなく、それを前提とした上で相手を喜ばせることを考える。思考や価値観の基盤を他者に委ねているからこそ、彼の客は喜び、またそれを読んでいる私も深く満たされた気持ちになるのだろう。ゆえに本作の真髄は「やわからさ」であり、それはつまりケア的であるということのだ。
ほんと、セックスしかしてないのに、どうして読後感がこんなに爽やかなんだろうか。夏休み中のお話ということもあり、久石譲が聞こえてきそうなくらいである。人からこの本をオススメされたときは、えっち!としか思ってなかったが、今やそんな阿呆なことを軽々しく言えない。本作は、紛れもなく文学であり、読者を深く癒やしてくれる素晴らしい作品だった。
読めて良かった!!!
余談
ジャンルは全然違うけど「誰?」と同じよね、この作品。
