
世界 2026年2月号
岩波書店
感想
●外見が「資本」となる社会で(西倉実季)
たとえ遠回りに感じられるとしても、その営みこそが社会学の役割であり、この社会の社会学者らその迂遠さに耐えながら歩んでいくしかない。
p.242
そうやなあ……。耐えながら、歩むしかないよなあ……。
社会で是とされる「美」は、一体誰がどのように決めているのか考えることで、埋没していた差別意識を掘り起こす。美的資本も文化資本などと同様に、個人的な努力の範囲を超えたところに存在するのだが、大衆がそう認識するにはただただ粘り強く主張していくしかない。
しかし相対するネオリベは、わかりやすい資本主義に後押しされて、次から次へと射幸心を煽るコンテンツを生産していく。対抗するための銀の弾丸は存在せず、じっと、我慢するしかないのだ。
そうよねえ……。そうするしか、ないよねえ……。
私としては、社会学のこうした忍耐強さが信頼できて好きなのだけれども、それによって社会が良い方へ向くには先が長い。私も、じっと我慢し、簡単に判断することなく、考えていきたいと改めて実感した次第である。
●文字で読まなくたっていい(バーンズ亀山静子)
最近読み始めた日経新聞電子版を思い出す。紙面ビューアで新聞をそのまま画面で読むこともできるし、記事をタップすれば横書きのテキストデータに切り替えることもできる。日経が対応しているわけではないものの、横書きのコピペできる文章であればスマホやPCの機能で読み上げもできる。結構、アクセシビリティが高いのではないだろうか。
一方で記事を読む限り、日本の教科書はここまで対応していないと見える。勝手な想像だが、資本主義の良し悪しが垣間見えるポイントだと感じる。日経においては、便利になればなるほど購読者が増えるので、アクセシビリティの向上に投資できるものの、学校は営利目的でないがゆえに、コストをかけても(即時的で直接的な)リターンが見られないため足が重たくなりやすい。
さらに勝手な妄想だが、こういう場面てこそ官民連携が光るのではないだろうが。日経新聞がそうであるように、読むことに係るアクセシビリティを高めたサービスは既にいくらでもある。学校が1から取り組むのでなく、既にある技術を連携してもらうことによって、学校側は工数削減ができ、企業側はイメージアップに繋がり、生徒は何年も待たずにすぐ使うことができるという、3方良しになるのではないだろうか。
と、思ったら15年前からやってる。それでいて著者は「まだまだ」だと言っているのだとすると、多くの障壁がありそうである。少なくとも私個人としては、以下を胸に、「外見が「資本」となる社会で」で書いたことと同様、簡単にジャッジしないことを心がけたい。
でも、「嫌いなんだ」と判断するのでなく、「なぜこれを嫌がるんだろう、抵抗する理由があるんじゃないか」と考えていくと、その子が苦手とする背景が見えてくるかもしれない。
p.256
●「世代間対立」を読む(遠藤晶久)
筆者の研究では、若年層は保守、リベラルといったイデオロギー軸ではなく、「改革志向」の強弱によって政党間差異を推し量って評価している可能性を指摘してきた。
p.25
納得感がある一方で、若年層の政治リテラシーが考慮に入っていないところが気にかかる。蓋し、「改革志向の強弱」で判断するのは、そもそも各種公約や政策の良し悪しを判断できないからこそ、ポピュリストの大袈裟な改革意識に惹かれてしまうのではないだろうか。
本稿では、世代間対立と年齢層のクロス分析によって、年齢別の政党対立の違いを確認している。高齢者は自民と立民の与野党の対立軸がはっきりしているが、若年層は国民民主と参政という野党内派閥に対立軸を見出していると結論づけている。
しかし、そもそもとして、若年層の有権者が各政党の特色を理解しているのかが私としては怪しく思ってしまう。当事者意識も当然投票行動に影響するだろうが、それ以前の、各党の立案する政策への解像度を比較分析してほしかったように思う。
俺達は雰囲気で会社を経営しているならぬ、俺達は雰囲気で投票しているという事態は、往々にしてあるのだ。(一夜城帰りの電車なので眠い)
●科学否定論の本当の標的(松村一志)
そう考えると、科学否定論の本当の標的は、通説を制度化する社会それ自体にあるといえる。
あるひとつの主張を書く記事が多い中、本稿は良いバランス感覚で書かれており、気持ちよく読めて、かつ新たな視点を得ることができた。陰謀論に傾倒した科学否定論を馬鹿にするのでなく、科学が通説化するプロセスを根本から疑うという、一種の社会学的な側面に焦点を当てているのだ。
これは「文字で読まなくたっていい」で引用した文章に近い。頭ごなしに決めつけるのでなく、なぜそう考えるのかと背景について思考を巡らすことで、自身の持つ価値観や考え方では辿り着けない地平を見いだせる。以下引用は、そうして科学否定論を否定せずに「なぜ」と考えたからこそたどり着けた結論なのだろう。
科学否定論という議論の形式は、今後も存在し続けるだろう。しかし、もしなくなることがあるとするならば、それは、私たちが科学を信じられるようになるときではない。むしろ、科学をうまく疑うことができるようになったときであるはずだ。