グレート・ギャッツビー再

感想

 初見時の感想が嘘のように、面白かった。どういう話かわかった上で読むほうが、困惑が少なく、良い距離感を保てるのだろう。初対面のギャッツビーは、成金趣味なのにナヨナヨした嫌な奴と思っていたが、その実、たゆまぬ努力の果てに恋に破れたいじましい男の子なのだ。「十七歳だった男は、十七歳の頭で考えそうなジェイ・ギャッツビーを作り出し、その人物像に最後まで忠実なのだった」という言葉が、ギャッツビーを過不足なく端的に表している。

「あいつら腐りきってる」と、私は芝生に大声を発した。「あんた一人でも、あいつら全部引っくるめたのと、いい勝負だ」
 こう言っておいてよかった。いまでもそう思っている。じつは最後までずっとギャッツビーには是認しかねるものを感じていたので、私から敬意を表したのは、この一回かぎりになった。すると、まず返礼にうなずいたギャッツビーが、破顔一笑、そんなことは初めからわかっていたじゃないかと言いたげな、明るい表情を見せた。

p.251

 特に印象に残っているのはこのシーン。「ギャッツビーに是認しかねるものを感じていた」ニックが、最初で最後、ギャッツビーに心を開く場面である。デイジーやトムの根っからの富裕層の横暴に辟易していたところへ、根っこが庶民の二人がこの瞬間だけ意気投合する。結果、ギャッツビーは「破顔一笑」し、作中で唯一とも言える屈託のない「明るい表情」を見せる。デイジーと再会したときでさえ、ここまでの笑顔は出なかったのではないだろうか。

 蓋し、ギャッツビーには夢中になれるデイジーよりも、日々気兼ねなく話のできる友人が必要だったのだろう。この点では「アルジャーノンに花束を」のチャーリィに近い印象を受ける。彼もまた、周囲に恋愛や母性愛の対象となる人間しかおらず、純粋に友愛を育む相手がいなかった。そういう存在がいれば、きっと彼らはひとりで抱え込むことなく、たとえ不器用だとしても、適度な身軽さで生きることができたのではないだろうか。

 とはいえ、作品としてはそうした不器用さが魅力のひとつでもある。初見時はしゃんとせえとしか思わなかったものの、今では「も~ギャッツビーったら相変わらず周りくどいんだから~」という大阪のおばちゃんマインドで見守れる。一途なのにヘタレ、それがギャッツビーなのだ。