「私」をつくる -おやすみプンプンの感想を添えて-【読書感想文】

「私」をつくる―近代小説の試み

安藤宏(2015)

岩波新書

※おやすみプンプン(小学館)/ 浅野いにお のネタバレを含みます※

要約

小説とは何か、小説は一体何を試みているのかを「視点」を中心に考察していく新書。1人称、2人称、3人称、さらにはその小説を書いている「私」、それぞれの視点が作品にどのような影響を及ぼすのかを説明し、近代文学として名高い作品たちがなぜ高い評価を得ているのかを解説する。そしてそれらを踏まえ、語られる部分をどう語り、語られない部分をどう語らないかについて考察し、過去から未来までの小説の在り方について考えていく。

「私」をつくるの感想

新書ながら名著

小説が好きな割に、こういう文学批評のようなものにあまり触れてこなかったので、内容がとても新鮮で徹頭徹尾驚きと発見があり、とても楽しく読むことができた。また、今後の読書に「視点」という評価軸が一つできたため、今までの読書経験よりも解像度の高い読みができそうでわくわくする。

また、本書の主なテーマとして語られる「視点」の話を読んで真っ先に思い出したのが「おやすみプンプン(小学館)/ 浅野いにお」である。漫画ではあるがこの作品は「視点」という要素を巧みに使いこなしていたと思うので、以下、『「私」をつくる』を踏まえて感想を改めて書いてみる。

おやすみプンプンの感想

この漫画では、キャラクターが描写されるコマとコマの間に、定期的に全く絵の描かれていない文字のみのコマが存在する。いわゆる「語り手」であるが、場面によって物語と語り手とキャラクターたちの距離感が変化する。

物語は以下の文章から始まる。

プンプンはその日学校に行くのが憂鬱で仕方ありませんでした。

おやすみプンプン 第1巻 第1話

顔の見えない語り手が明確に存在しており、かなり俯瞰した視点にいることが伺える。つまり、読者からしても、主人公プンプンの内情に寄り添うよりも、顔の見えない語り手が展開する、ある意味おとぎ話を読むような、お話を遥か上空から眺めるという気分になる。

しかし、主人公プンプンが年齢を重ねるとともにこの顔の見えない語り手が彼に近づいていく。彼に近づけば近づくほど、読者はプンプンの視点を通してでしか物語を観ることができず、彼の心情に肉薄し、彼の見る世界が標準であるように信じ込まされてしまう。その結果、この時点で読者は、彼のことを陰惨で思い込みが激しく内向的な薄暗い人間だと捉えます。

しかし物語の後半になり、主人公プンプンは初恋の愛子ちゃんと行方をくらませる。彼のいなくなった後で語られる彼の周辺人物たちの描写では、彼の視点では一切語られることのなかった意外ともいえる彼の一面が多く登場する(例:実は資格取得のために日々勉強していた)。つまり、彼の主観的な立場から世界をみると、彼のネガティブな性格のために、自分自身の努力や頑張りがうつらない=描写されないことになってしまうが、周りの人々にはその努力がしっかりと観測されている=描写されているということになる。

ここには一種のカタルシスがあるように思える。自身に対してネガティブである主人公プンプンの視点でしか語られることのなかった物語が、彼の視点から解放されたことにより新たな色味を帯びてくることへの快感が少なからずあるのではないかと思う。

そしてさらに終盤になって、物語の幕を上げた語り手が、実は幸子(愛子ちゃんと決別したあとに出会った、事実上のパートナーに近い存在)視点であることが判明する。ここですべてがひっくり返る。先ほどまで私があれやこれや考察していた内容が、実は全て一人の女性の視点でしか語られていなかったことになり、これまで積み上げてきた読み込みが根底からくつがえされてしまう。

この「俯瞰→主人公の1人称→俯瞰→別の人物の1人称」という何度も移り変わる視点に読者は翻弄されることになる。そして何を正として読めばいいかもわからないような足元がぐらついた中で叫ばれるキャラクターたちの慟哭が、読者の感情を激しく揺さぶり、魅了していくのだろう。私がおやすみプンプンを名作だと感じた理由は以上である。

視点を意識するだけでこんな感想文を書けるようになるんだから面白い。