感想
d
君のオーディオはそろそろ、ちょっとは特別なものになったかいとヨ・ソニョが聞いた。同じモデルでも、その機器を扱う人によって音が違うとヨ・ソニョは言った。この世でそれ一台だけだから、ヴィンテージを使用する人たちは、直すとは言わない。生かすと言うんだね。
p.117
湿っぽい風が修理店の中に吹き込んできた。雨が入ってくるとヨ・ソニョは窓を閉めた。黒っぽく燻ったガラスのバルブの中に明かりがついていた。dは思わず手を差しのべて、その透明な球を握ってみた。ぞくっとするような熱を感じて手を引っ込めた。
疼きが走った。
dは驚いて真空管を眺めた。もう手を引っ込めたのに、その薄くて熱いガラスの膜が手に貼りついているようだった。疼痛が、皮膚を貫いて食い込んだ棘のように執拗に残っていた。軽く見てはいけないよと、ヨ・ソニョは言った。それはとても熱いのだから、きをつけろ、と。
技あり一本。
灰色の曇り空が重く垂れこめるような、ずーっと重苦しい雰囲気で、作品としては腕があって素晴らしいのだけれども、読み進めるのはそれなりに難儀だった。ところが最後のページ、上記の一節によって、そうした重苦しさの底にひっそりと、されど確固として存在する熱に触れたのだ。それは、「この世でそれ一台だけ」のヴィンテージの真空管の熱でもあり、dというたった一つの人生の熱でもあるのだ。
蓋し、主人公の名前がd、彼の恋人の名前がddと表現されているのは、dが彼女を自身の片割れのように感じているからではないだろうか。人間はしばしば、自他の境界が曖昧になる。しずかちゃんのパパがのび太のことを「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ」と評したように、場合によっては良いことでもあるのだが、こと本作においては、dがddの死を御せないという、わけのわからなさに結実してしまう。実際dはヨ・ソニョにあの世について考えたことがあるかと問われた際、こうつぶやく。
こうやって動かずに座っているときも、動いているときも、何かを考えていても考えていなくても、僕は死を感じます。きわめて停止した今、をね。あまりに停止しているから、今すぐには僕 後のことが想像できないですよ 知りたくもないし。
p.90
作中で明言されていないものの、時間感覚が希薄になっている様子が、うつ病の症状を思わせる(※)。実際にそうだったかはともかく、dにとってddの喪失は、それほどまでにつらく、もはやつらいということすら感じられないほどに呆然としてしまっているのだ。
そんな中、dは大家のキム・グィジャから朝鮮戦争の話を聞く。あるいは、ヨ・ソニョからレコードプレーヤーを譲り受けてddの所有していた音楽を聞く。それから、ユン・ソノ老人の虚構と失踪を見聞きする。はたまた、ddの友人だったパク・チョベと光化門へ向かう途中にセウォル号沈没事故のデモを見かける。
そこには共通して「取るに足りなさ(p.116)」が溢れている。予兆もなく、突然消えてしまうほどの、あまりにも儚い、あまりにも取るに足りない命のひとつひとつ。ddの存在もまさに「取るに足りなさ」の一つであり、だからこそ彼女の死はどこかあっけなく、dが何をしていても死を感じてしまうのである。
そしてdは何回も自問自答する、「僕の愛する人はなぜ一緒に来なかったのだ」と。答えは最後まで出ない。それは、ヨ・ソニョが言うように「軽く見てはいけ」ず、簡単に答えの出るものではないからかもしれない。ただ、dは真空管(つまりセウォル号沈没事故のデモ)に触れることで、そこにある熱を、思わず手を引っ込めるほどにしっかりと感じることが出来る。「きをつけ」なければならないほどに、「それはとても熱い」のである。
あえて言葉にするならば、本作には人間の「取るに足りなさ」の全てが描かれている。儚さ、尊さ、哀しみ、嘆き、愚かさ、切実さ、無常さ、言葉では表現しきれないその全てが、本作には籠められているように思う。そして本作は、その「取るに足りなさ」を受容し、また抗ってもいる。こうした人間の命に係る全てが見事に表現されており、あまりにも圧倒的で、あまりにも、圧倒的なのである。
ただ、最後に備忘としてメモしておきたいのは、上記の感想文でも取りこぼしているものがかなり多くあるということ。本作は、密度が非常に高い。セウォル号沈没事故に限らず、ペデストリアンデッキ開発事業や、イ・ウンピョン大尉帰順など、多くの出来事がところせましと敷き詰められている。おそらく、そうした出来事を一つずつ紐解いていくと、全く異なる景色が現れてくるのだろうが、一旦現時点での感想として上記の内容をあげておく。
どういう繋がりがあるか全くわからなかった諸要素が、最後の数ページでまとめ上げられる、技あり一本、あまりにも見事な作品だった。
※職業人の「うつ病」と生活リズム「うつ病」による行動の「遅れ」について(関東中央病院)
何も言う必要がない
解説がなければ、頭に「?」を浮かべたまま本を閉じるところだった。「ディディの傘」が、dとddの出会い→再会→別離→dの生活と、ざっと概観できる物語を持っているのに対して、本作は「朴槿恵前大統領への断崖が成立した2017年3月10日の正午過ぎから午後1時39分までの一時間ほどにすぎない。(p.274)」これを軸にして、「親世代の経験含めて二世代、6、70年ほどのできごとが縦横無尽に語られ(同頁)」ており、状況を把握するのに相当な労力が必要となる。
加えて、著者の読書歴が惜しげもなく披露されており、そのとんでもない情報量に不勉強な私は宇宙猫になってしまう。クリストファー・アレグザンダー、ニーチェ、ロラン・バルト、サン=テグジュペリ、シュテファン・ツヴァイク、オシップ・マンデリシュターム、プリーモ・レーヴィ、エトセトラ、エトセトラ……。時間軸だけでなく知識や思想も縦横無尽に物語を駆けずり回っており、目が回るのなんの。雰囲気は静謐なのに、書かれてある内容には熱があり、そのコントラストが著者特有の空気感を生み出しているような気もする(内容を理解しきれていないのでわかんない)。
実際、名作の雰囲気は嗅げたので、とりあえずは読んだということにしておきたい。ファン・ジョンウン作家の作品を読むのはこれが初めてであり(※)、作家自身のことを私はまだよく知らない。「ディディの傘」の前進である「笑う男」を始めとして、他の作品を読んだあとで、改めて本作に戻ってきたい。
「ディディの傘」の文章量とのバランスに、自分事ながら呆れてしまうのだけれども、それはそれとして良い読書体験になったことは間違いない。日本にやってくる韓国文学らしい韓国文学を読めたので、十二分に満足である(精一杯の強がり)。
※厳密には、「野蛮なアリスさん」の最初数ページだけ読んだことがある
