世界 2025年10月号

世界 2025年10月号

岩波書店

感想

地元で生きる若者たち

 地元で暮らす人々のライフスタイルは、教育格差という観点から障壁として問題視されることがあっても(解放のポリティクスの観点から問題視されることがあっても)、ライフ・ポリティクスの次元で政治的なイシューになることはほとんどない。

p.138

 「世界」にドはまりした理由が詰まった素晴らしい記事だった。ある問題に対し、なんとなく感じているものを、先行研究を用いながら言語化し、見落としてしまっている箇所を拾い上げる営みが行われているからだ。本記事の場合は、日本における教育格差を、ギデンズの「解放のポリティクス」と「ライフ・ポリティクス」、それからブルデューの階級分析を用いて考察しており、結果的に権威主義的な「地元型」の社会における、ライフ・ポリティクスの不可視性を明らかにしている。

 これはかなり唸らせられる議論ではないだろうか。実際、私にとって地元型社会における教育について考えるとき、「学歴や就職のために地元を出る or 出ない」という解放のポリティクスに根差した二元論でしか考えてこなかった。しかし本記事は、そうした二元論とは別に、「地元に生きる」ことを前提としたライフ・ポリティクスがあるのではないかと主張している。彼らは解放のポリティクスにおける「業績主義(メリトクラシー)」、言い換えれば、私の思考の前提そのものを相対化しているのだ。

 こういうラディカルな分析を、つまみ食いっぽく読めるのが「世界」の良いところである。学術書ほど難くなく、かといって一般書ほど易しくもないレベル感が、私の頭にぴったりとマッチしていて読むのが心地良いのである。正直、本記事の内容はまだ「点」でしかなく、ジョブズの言うような「コネクティング・ザ・ドッツ」はまだ起きてはいない。とはいえものすごく重要な示唆であるという予感もあり、読めて良かったと実感するばかりである。

70歳まで働く社会

 70歳まで働ける環境の整備は、多産社会時代の遺物である「定年制」を将来的に廃止し、いつまで働くかは誰もが自分の意思で選択できる社会づくりの第一歩となる。バリアフリーが障がいのない人々を含む多くに恩恵をもたらしたように、70代が働きやすい環境の整備は、若い世代の仕事や生活にもゆとりと安心をもたらす。

p.44

 働きたくな~~~~~い!!!!!

 本当に、働きたくない。毎日そう思いながら働いている私にとって、本記事の内容はディストピアそのものである。そりゃあもちろん、何歳でも働ける選択肢はあったほうが良いのだろうけれども、とはいえ70歳を超えても働くことを実質的に要請される社会は、かなりしんどい。新卒で働き始めてからまだ3年目だけれども、こんな生活が向こう4、50年続くと思うと、暗澹たる気持ちになる。

 とはいえ財源においてデッドロックが発生していることもまた事実である。「年金制度を含む社会保障制度の充実には、財源の大規模かつ持続的な確保が欠かせない(p.43)」のは当然であるが、「社会保険料を増額することで収入から手取りが減少することには、国民の強い抵抗や反発が予想される(同頁)」ことも当然である。「消費税率アップによって社会保障を充実させることも不可能(同頁)」なのも、論じるまでもないほどであり、もはやどうしようもない(裏金や汚職の改善で財源を確保できるのではという一抹の期待もあるが、ここでは夢物語として省略する)。

 こうした財源の確保が一向に望めそうにない社会で、私たちは何を考えて、何を議論して、働き続ける社会にどう対処していけば良いのだろうか。

 私は、先に引用した文中の「ゆとり」が重要なのではないかと思う。言い換えるなら、「どうせ70超えても働かにゃならんのだから、のんびりやろうや」ということである。私は労働を嫌悪しているが、その理由は主に三つ、「長時間労働」「人間関係」「低賃金」に由来する。逆に、これらが改善されれば、70を超えて働くことも、まあ、ギリ、許せるのである。ギリね、ギリ。

 「低賃金」に関しては、それゆえに70歳を超えて働くことを余儀なくされており、循環構造になっているので一旦はおいておく。したがって残る二つの「長時間労働」「人間関係」が労働嫌悪の根源だとして議論を進めていけば、多少今よりは生きやすい社会になるのではないだろうか。この感想文でその具体的な議論は行わないものの、一つの視点として、「ゆとりをもって働ける社会」を持っておくことは大事だと、本記事から思わされた次第である。

 まあ、働きたくないけどね~~~~~~!!!!

本と책 第29回 ~広告コピーで学んだ日本語~

短い言葉には、背景や文脈、書き手の想い、読む人の感情を動かす仕掛けが隠れている。それを感じるには、自分の想像力や感性を働かせるしかないのだと学んだ。

p.271

 後半部分に唸らされた。言葉に限らず、映画も、漫画も、風景も、料理も、それらがいかに素晴らしかろうとも、受け手にそれを感じる力がなければ、無用の長物で終わってしまう。普段から自身の想像力や感性を研ぎ澄ましているからこそ、心を動かす言葉の存在に気付けるわけで、ここには受け手の資質についての重要な示唆が含まれているように思えるのだ。

 特に、金承福作家においては、日本語のコピーを母語である韓国語に訳す試みを行っている。これは、想像力や感性を養う上で重要ではないだろうか。海外の洗練された言葉を、その質感のまま母語に訳してみる。もちろん上手くいくことなんてほぼないだろうけれども、そうすることによって、母語と外国語が相対化され、それぞれに対する眼差しが変化していくのだ。

 私は前号で、彼の文章を「比喩や表現が秀逸」と書いた。それはおそらく、何十年と韓国語と日本語を行き来してきたからであり、ゆえに母語でない日本語でさえも美しく書くことができるのだろう。

女性「活躍」はもうやめよう

そういう上のほうの人たちにとってはリアリティのある活躍ということだけでやっていると、そんな活躍にとうてい及ばないような人たちが、しかしそれぞれのミクロな場でみみっちくても小さな活躍をするということがどうやって可能かという話にどうもつながっていかないのではないか。

p.51

 ガンフィンガーが上がりっぱなし。記事を通して、濱口氏はパンチラインを吐き続けている。これはもう、天晴というより他ない。

 やはり大事なのは、まず、自身のバイアスに気付くということである。議論のテーマの前提となっているところにも疑いを向ける視線の鋭さ、本記事で言えば、「女性活躍」の前に従来の「活躍」が意味するところを見直している点が素晴らしい。そもそも「無限定な働き方(p.46)」自体がおかしいのであり、それを土台にして女性の活躍を議論したところで頓珍漢な方向に進んでしまうというのは、当然であるはずなのに膝を打ってしまうのだ。

 他にも本記事では「エリートバイアス(p.50)」にも言及されている。先に引用した通り、本記事のような議論を積極的に行うような人の「活躍」と、「組織の中で下積みのほうでやっている方々(p.51)」の「小さな活躍(同頁)」は全く異なる。だのに両者を同一のものと見做して議論を進めれば、どこかでかならず齟齬が生まれてしまう。そういう可能性に気付かせてくれる文章は中々貴重で、信頼できるのだ。

短時間正社員

イケアの採用ページ(2025年9月時点)

 企業としては、全従業員の社会保険料・確定拠出年金加入で金銭的負担が増加したが、当時開始したオンラインショッピングで売上が伸びたため、特に問題にならなかった。

p.58

 素晴らしい制度に感銘を受けると同時に、上記の部分がどうしても気になってしまう。派遣社員が多くいる日本社会で短時間正社員制度を導入するには、潤沢な資金が必要で、やはりハードルが高いのだろう。

 とはいえ、導入コストを加味しても十分ペイバックできそうにも思える。労働力が不足する世の中で、何をするにしたってまず確保するべきは労働力、それも前向きに働こうと思ってくれる人材である。制度を整えることによって、そうしたポジティブな人材を確保できるのだとしたら、最終的には黒字に転換できそうな気もする。

 そもそも私は短時間正社員制度自体知らなかった。それだけでも、本記事の意義、ひいては短時間正社員という存在は重要なものだと思えるのだ。

危うくてもスピードを落とせない自転車たちを救うこと

 危うくても、限界でも、責任が自分の肩にのしかかっている以上、前に進まざるを得ない。スピードを落とせない。本当は、誰か手伝ってと心の中で叫んでいる。そんな思いをしている人を一人でも減らそうと思わない限り、社会は変わらない。

p.62

 小山内園子氏の観察眼の鋭さを目の当たりにした。本記事では、声にならない声、心の中での叫び声を、狭い道を猛スピードで疾走するママチャリから掬い取っている。見過ごされてしまいがちなひとつの風景から、ケア労働者の苦悩を見出しており、先の引用では「そんな思いをしている人を一人でも減らそうと思わない限り、社会は変わらない」とあるが、そもそも「そんな思いをしている人」に気付かない人が大半ではないかと思わされた次第である。

 かくいう私も気づかない人の一人である。普段、子供を乗せて疾走する自転車は見かけるものの、どうして疾走するのかまで考えたことがなかった。こういう様々な人々の背景にまで想いを馳せるきっかけを与えてくれるという点で、本記事のような文章はすごく有難く感じる。普段から感想文であーだこーだ言っているものの、まだまだ勉強不足・思慮不足であることを痛感させられるのだ。

 それから、本記事では翻訳者の創意工夫が垣間見えるのが面白い。母としての苦悩を、質感をもって翻訳するために、日本の母親たちのSNS上でのつぶやきを観察しているのだ。ある意味社会学のフィールドワークをインターネット上で行っているようで、彼の自由な発想に驚かされた次第である。スピードを落とせない自転車たちにせよ、SNSでの母親にせよ、ややともすると見落とされてしまうものを拾い上げる鋭利な視線は、常々見習いたい。

履歴書無価値

 「融通が利く側(p.67)」として蔑ろにされてきた経験を跳ね返す逞しさがありつつも、それを美談として消費させない痛烈さがあり、バランス感覚が絶妙である。おそらく、「楽しくしぶとく気ままに働き続ける(p.68)」というポリシーのようなものがあるからこそ、「どんな侮辱的なジャッジ(同頁)」も意に介さずに働けるのだろう。ベビーシッターやペットシッターでの多幸感も決して大袈裟でなく、等身大に生きていることが伝わってくるのである。

 ルサンチマンが刃となって誰かを傷つけることなく、かといって溜め込んで澱になることもなく、どこかカラッとしている、形容の難しいカテゴライズできない良い文章だった。