冷ややかな悪魔

冷ややかな悪魔

石田夏穂

U-NEXT

感想

 文句なしに面白い。従来の自分が揺らぎ、ジムに挑戦し、一度はそこでの達成感に陶酔するものの、やがて冷めて一皮むけた本来の自分を取り戻すという物語の構造は、「我が友、スミス」と全く同じなのだけれども、新鮮に楽しむことができた。

 さらに言えば、女性への旧時代的な価値観の押し付けに困惑したり悪用したりするという点でも「スミス」とほとんど同じである(とはいえ肥満による出張禁止から、結婚指輪の話に展開するのは予想外で驚かされた)。しかし、それでもなお面白くて一気読みできたのは、ひとえに石田夏穂氏の文章の面白さゆえである。ステレオタイプな社会に毒づきながらも、本人もそこそこ性悪だからこそ、そこまで湿っぽくならず、ブーメランが行き来している様が快活で楽しいのだ。

 ここで私は、銀魂の作者である空知英秋氏の言葉を思い出す(うろ覚え)。曰く、彼はギャグ描写を挿入する際、キャラクターひとりだけを落としたりしないのだそう。誰かひとりを落としたならば、それを笑うキャラクターもまたその後に落とされる。そうすることによって、誰かひとりにヘイトが溜まることなく、読者はキャラクターみんなを笑い飛ばすことができるのだ。

 石田夏穂氏にも似た思想を感じるのは決して気のせいではないだろう。世間に悪態をつく主人公は、ジャンヌダルクのような、社会正義を貫く英雄ではない。むしろ、ねこばばし、嘘を吐く中々の悪人である。しかしだからこそ読者としては、芸人たちのプロレスを見るような気分で本作を楽しむことができるのだ。

 とはいえ主人公の世間への批判が、全くの見当違いということもないから味わい深い。確かに楽しくて、声に出して笑うほど面白いのだが、それでも心に石が投げ込まれて、読後にじんわりと残り続ける何かがある。それはきっと、読者のルサンチマンを代弁してくれているからなのだろう。海外に脱出したくなるほどの息苦しさを抱えつつも、現実にはそのしがらみから逃れるのが主人公ほど簡単でないからこそ、読者は本作に一種の救いを見出すのだ。

 一目散にジムから離れ、信号の前で立ち止まる。これはいける、と確信すると、その場で仁王立ちしてみた。ロキソニンも何も飲んでないのに、ピンと立つことができた。ピンと、ブレずに両足をつけた、完璧な直立の姿勢だ。「やった!」と思わずガッツポーズした。やっぱり嘘は嫌いだ。ユカリは(さよなら)と思った。さよなら、冷ややかな悪魔!

p.121

 この力強さ、この逞しさ。
 最高じゃないか。