感想
●言語化万能というイデオロギー(大澤聡)
佐藤健二『歴史社会学の作法』(ニ〇〇一年)が的確に指摘しているように、自己完結したページ越しに書き手の「内面」という不可視のスペースが覗き見られるのです。書物の形式がそこに主体をつくる
p.94
ん〜〜〜難しいなあ。わからないので、思索の断片を書く。
「要約」ブームというのはつまり、一事が万事、「情報量」を重視している風潮のことを指すと理解した。当稿で例示されたPDFや生成AIなどのテクノロジーから始まり、情報量を気にかける姿勢が対人関係へと広がっていったと考えて良いかもしれない。
その点読書会って、情報量の場じゃないから素敵なのでは?と思ったのだけど、案外情報量が重視されている気もする。課題本型の読書会で話があんまり盛り上がらなかったとき、「深まらなかったな〜」と思ってしまうのは、読書会で喋ることよりも、その作品の情報量を増やすことに重きを置いているからではないだろうか。
だから、「要約ブーム」は「情報量偏重の時代」ではなく、「主体性を排除する時代」のことかもしれない。要約することによって、書き手の内面が消失し、ただの「情報」になる。逆に、自分が何かを話して、それを「それってこうだよね」と要約されたとき、自分という主体はなかったことにされる。
あるいは当稿であったように、情報量偏重の会話をする「対話的な時間(p.99)」の中で内面を形成する、「ポスト・ヒューマン(同頁)」的な在り方でもある。
個人的に、こういう人生の見つけ方は別に悪いことでないと思う。他者と会話するうちに、誰かと関わるうちに、何かを創造するうちに、自分でもわからなかった自分と出会うことができる経験はいくらでもある。
たぶん、問題なのは提供される「情報」に対して無批判だからではないだろうか。言語化万能というイデオロギーが蔓延してるからこそ、そこにある「文字」が真であると受け取ってしまう。本当は、文字は表現の一形態であり、不完全なものであるのに。
だから、批判的であるかどうかは言語化の信者となるか、利用者となるかの分水嶺なのかもしれない。当稿を読んで、正直なところ最初は「でもこういう小論は言語化を徹底しなきゃいけないじゃん」と思っており、矛盾ならずとジレンマのようなのを感じていた。しかし実際は言語化を免罪符にするか否かによって、変わってくるのかもしれない。
いや〜でも、ん〜〜〜よくわかんねえ〜〜〜。自分の中である程度腑に落ちた(でももやるとこもある)一方で、そういう言語化信奉者と相対したときにどうすればいいんだろうという疑問もある。なんだろうなあ……。
●「曖昧な弱者」とその敵意(伊藤昌亮)
論点の整理としては良いけれども、とはいえ割とわかってたことばかりなので、その先の議論を読みたかった。「第三の道(p.27)」と言うけれども、デッドロックがかかったような社会で果たしてどのような道があるのか、その思索のヒントがほしかったように思う。
●人はなぜ真実に生きたいと思うのか(森本あんり)
人はみな、誰かをケアし、誰かにケアされている。そういう交わりの中にこそ本当の自分が息づくのだ。
p.42
前提として、良い記事である。政治・経済・国際をテーマにする都合上、重くなりがちな「世界」という雑誌において、「それでも人は、真実に生きたいと願い、人を信頼したいと願う(p.42)」という言葉には胸を打つところがある。続く文章「そのあえかな希求に、世界も『世界』も支えられている(同頁)」もレトリックが効いていて唸らされる。
一方で、標記に対して一切の結論めいたことが書かれていないのが気にかかる。強いて言うなら「理由なんて関係なくただただ真実に生きたいんだ」という純朴な願いなのだろうが、とはいえ少し物足りない。
そこで自分で考えてみる。人はなぜ真実に生きたいと思うのか。
蓋し、真実でなければ自身を肯定できないのではないだろうか。野﨑まどの「小説」をつまらないと評した人と話していて気付いたことだが、当作が受け入れられた背景には、書籍を読み続けるだけの趣味に不安を抱いている人が思いのほか多いかもしれないということ。当作はそれを肯定するからこそそうした層に刺さった一方で、読書という趣味を幼少期から肯定できているその人には刺さらなかったという話。もちろん描写力など他の要素も多分にあるものの、「肯定」の有無が良作の分水嶺の一端なのは間違いないだろう。
転じて、人は、外部から肯定される必要があるのだと思う。そしてそのためには自分自身を外部に晒す必要があり、つまり噓偽りであってはならないということである。だから、誰しもが真実に生きたいと願うのではないだろうか。
●いいとこ取りはできない(永野三智)
話をしようとすると、私自身が「では、私は?」と聞いてきます。
p.74
[略]
それでもこの問いが、二度と水俣病を繰り返さない社会をつくることにつながると信じています。
「言語化万能というイデオロギー」を読んだので、上記の言葉が胸に迫る。「言語化万能」では言語化された情報への無批判な姿勢を俎上に乗せていたが、この記事では自分自身に対して批判的な視線を常に持っており、そうすることで「水俣病を繰り返さない社会をつくることにつながる」と結んでいる。
本当に、その通りだと思う。外へも、内へも、批判的でいることは、本当に、大事。
●劇薬とオールドメディア(安藤優子, 林香里)
「留保し、止揚する」とい言葉が浮かぶ。
林氏は現代のメディアについて、「被害者性(p.81)」「被害者意識(同頁)」という言葉を持ち出して、適切な批判が非難と捉えられ、追及される側が正当かのように振舞えてしまう状況を指摘している。また安藤氏は、「政治システムの中にメディアが組み込まれている(p.79)」状況を、自身の経験とともに振り返る一方で、オールドメディアの「取材力(p.81)」は新たなメディアの在り方を創出する際に活かすべきだと発言している。
「世界 26年1月号」のテーマなのだろうか。
「言語化万能というイデオロギー」にせよ「曖昧な弱者」にせよ「いいとこ取りはできない」にせよ、何らかの主義主張を断定するのではなく、逐次内省し、批判的な視線を内外問わず向けようという意識が見られる。ポピュリズムやナショナリズムがショート動画とともに普及する現代だからこそなのはもう言うまでもない。願わくば、いや、願わずとも私含めひとりひとりの行動によって、「留保し、止揚する」世界に近づけていきたい。
●いまこそ〈マジョリティの哲学〉を構想する(朱喜哲)
現時点で一番心に響いた記事。引用したいところが多すぎて困るのだが、大別すると2つの良さがある。1)哲学そのものの意義と2)ローティとドゥルーズの哲学から見る「マジョリティ」観だ。
まず1)哲学そのものの意義については、ヘーゲルの体験についてまとめた以下を引用しておきたい。
そのナポレオンを目撃して、高揚感を漂わせながら「馬上の世界の世界精神を見た」と報告するヘーゲルの哲学者らしさ、その浮世離れした感覚は、あるいはめまぐるしい情報の洪水に接する私たちに、ある種の癒やしを提供してくれるかもしれない。私たちは、自分のミクロな利害関心を越えて、世界や時代の「精神」に思いを馳せ、その課題を考え、論じる事が出来るのだ、と。
p.84
目の醒めるような思いである。どうやら私は、種々様々な情報と距離が近すぎたらしい。アテンション・エコノミーが回って久しい現代、古今東西ありとあらゆる情報が閲覧者の気を引こうと必要以上にインパクトを重視して届けられている。加えてそうでなくても、人間は社会で生きている以上、身の回りのことについて常々考えながら生きなければならない。
そうして近視眼的な視野に陥って窮屈な思いをしている私に声をかけてくれたのが、上記の引用文である。哲学は蓋し、山頂の風景や大海原の水平線である。遠くまで眺め俯瞰することで、偏狭に苦しんでいた心を開放し、新たな地平を見出すことができるのだ。
加えて著者は、哲学と対置される、「ケア」を始めとしたマイノリティ性を語るための理論を蔑ろにはしていない。むしろ「私個人も、自分自身を理解し表現する上で、こうしたボキャブラリーからは多くを学んできたし、現在のみずからを形づくることばをもらったという、いわば読者としての恩義がある(pp.84-85)」と一定の敬意を示しつつ、「バランスをとりたい(p.85)」と中庸の立場を表明している。この両者を大事にしつつ、それでいて肩入れしないバランス感覚に私は信頼を置きたくなるのだ。
そして2)ローティとドゥルーズの哲学については、標題の通り、「マジョリティ」の捉え方がドラスティックで、私の目にはかなり新鮮に映った。中でも一番覚えておきたいことは以下の引用である。
しかし両者は少なくとも〈マジョリティ〉性の権威がまずあるということからはじめなければならないという点で一致していた。私たちはつねにすでに〈マジョリティ〉であり、そうとしかあれないのだと。それをたんに恥辱として目を背けるのではなくしかるべく責任を果たし、他者に誇るのではなく自身の矜持にかけてそれをまっとうすることを、そこから模索できるはずだ。
pp.90-91
この地点からはじめられれば、私たちはドゥルーズ=ローティが共有するように「主体になれない」「みずからの言葉をもたない」存在に陥らざるをえない〈マイノリティ〉性という厳然と社会にある、そして自身の裡にもあるだろう一側面を、無視したり軽蔑したりするのではなく、あるいはその転倒として憧憬したり特権視したりするのでもない、そんな舵取りができるはずなのだ。
私たちは互いに固有の人生を生き、それぞれ異なるかたちの傷を負っている。そして同時に、かなり多くの共通項をもち、それなりの幸運にめぐまれて、この社会でともに生きている。そういう平板で凡庸な、しかし端的な事実からもう一度会話をはじめられないだろうか。
3段落もがっつり引用してしまったが、現代社会を俯瞰する上で重要なエッセンスがこれでもかと凝縮されている。著者曰く(私はドゥルーズもローティも知らない)、二人の哲学者はマジョリティであることに対して「恥辱」と「誇り」という相反する考え方を持っているのだそうが、どうも議論がすれ違っているらしく、むしろ出発点は同じところにあるのではないかと考察している。
それが上記である。二人とも「みずからが〈マジョリティ〉であることに自覚的(p.87)」なところを出発点に、「恥辱」と「誇り」へと分岐している。そして、著者はこの「出発点」に着目し、現代に生きる我々もまた、「それぞれ異なるかたちの傷を負」いながらも「かなり多くの共通項をも」っている存在として捉え直しているのだ。
●応援歌としてのジャーナリズムへの提言(根津朝彦)
なぜならエンタメ情報といえども、新聞社が手がけた記事であれば、そこには自ずとジャーナリズムの視点(このことを新聞社の方に話したところ、「ジャーナリズム風味」、「ジャーナリズム・フレーバー」、「エンタメ時々ジャーナリズム」と表現してくれた)が根差すからだ。
p.105
机上の空論なだけに、主張されていることは面白いのだけれども、課題が多いなあという印象。まず、本稿でも書かれていたように信頼できるマスメディアが存在しないこと、そして次にそうしたメディアに支払える金銭的な余裕がないことが挙げられる。それらを解決するための案も本稿で提示されてはいるものの、道程は長そうだ。
しかし、「総合雑誌には関係性を紡ぎ出すポテンシャルがある(p.107)」という言葉はすごく良いと思う。思い出すのはゲームさんぽ。様々な専門家が専門的な視点でゲームをさんぽするという内容。上記引用のエンタメ×ジャーナリズム的なエッセンスがありつつ、かつゲームによって領域を越えた関係性が紡ぎ出されているように感じられる。
とはいえそういう企画的な取り組みは出版社に任せるよりほかない。私ができることを考えた時に浮かぶのは、政治に関連する読書会を行うことではないだろうか。本稿では学生に「思想が強いとラベリングをして、議論することを避ける傾向がある(p.104)」と触れられているが、何も学生に限った話でなく、しっかりと年を重ねた大人でも政治の話はタブーという風潮が見られる。
だからこそ、読書会である。血縁・地縁ほど近くなく、赤の他人ほど遠くない距離感だからこそ思い切って読書会をしてみても良いのではないだろうか。円滑な開催は難しいかもしれないが、挑戦してみたいテーマではある。
●フェミニストが高市首相を歓迎できないこれだけの理由(上野千鶴子)
文章の切れ味が鋭く、読んでいて心地が良い。あくまで「女性であれば誰でも良いわけではない」ということを様々な反論をなぎ倒しながら説明しているだけなので、「いまこそ〈マジョリティの哲学〉を構想する」ほどの目新しさはなかったものの、読後に満足感があって読めて良かったと思える。
●日本のメディアは黙らない(山本豊彦)
記者の名刺をSNSにアップロードするという行為は、品性下劣で許されざるものである一方で、本稿が「屈しない」という決意表明に終始していたのは、「世界」という政治・経済の総合雑誌の記事としては少し物足りないように感じてしまった。何かしらの言説を交えて、議論なり考察なりを行ってほしかったと思うのは、流石にぜいたくなのだろうか。
●「身を切る」のは誰か(大山礼子)
二〇一九年統一地方選挙のデータ(総務省選挙部資料)によると、選挙区当たりの定数が少ないほど立候補者が減り、無投票当選が増加することがわかっている。
p.156
「新しい「政治の季節」への予感」での疑問を解消するために本稿を読んだ。議員定数、減らしちゃだめじゃん。「政治でメシを食べる人の極小化」どころか、政治でメシを食べる人しかいなくなっちゃうのでは? 今回はたまたま違和感を覚えて気づけたけれども、「世界」に対しても批判的な眼差しを持たないとなあ……。
