言葉に何ができるのか

言葉に何ができるのか

佐野眞一, 和合亮一

徳間書店

感想

 物書きの端くれとして、「書くこと」全般に係る哲学について考える機会になった一方で、佐野氏の態度が不遜なために良い言葉でも拒んでしまうことがたびたびあった。なお、和合氏は一歩引いた冷静さと当事者としての熱の両方を併せ持ったバランス感覚のとれた方で、この人の言葉は佐野氏に比べればするっと入ってきたところがある。

 そもそも、阪神・淡路大震災を引き合いに出して東日本大震災を語る姿勢に納得がいかない。30頁で語られるような、前者が「発狂」と表現できるのに対して、後者が「何もかも奪われた静寂」と表現されるからこそ、東日本大震災が未曽有の大災害だというのは理解できる。

 しかし、「神戸の地震のときは、そんな思いはなかったけれども、今回はあったね(p.21)」といった物言いは阪神・淡路大震災を矮小化させるようで、どうにも腑に落ちない。「言葉に何ができるのか」という表題をとって、言葉の力について考えるのであればこそ、災害を取り扱う言葉遣いにはもっと繊細でいてほしかったと思うのが正直なところである。

 加えて佐野氏は、自身が間違っていると思ったものに対する言葉遣いが徹底して汚くなるのが気になる。マツコ・デラックスを「デブってる(p.61)」と揶揄したり、野球やサッカーのことを「球投げて棒振ってるとか、球蹴ったりしてるだけのことでしょう(p.130)」と表現したり、とてもオールドメディアを「訳知り顔(p.51)」だと批判する人間の言葉とは思えない。確かにエンタメ世界での言葉はチープだろうがしかし、そうした何の感慨も入っていない空っぽな言葉が心を軽くしてくれることだってあるのだ。

 とはいえ佐野氏の言葉が全く響かなかったわけではない。彼はとにかく現場に赴き、当事者の声を聞き取り、仮説を立てて文章を書く。このようなプロセスを経て抽出された言葉は「肉体性(p.120)」を持つ。言い換えれば、「きちんと骨で思考し、骨で語り、問いを常に感じて(p.124)」いるということである。

 ここは、物を書く上で改めて考えたいポイントである。デジタル化された現代社会はとかく部屋を出なくて済む。宅配サービスしかり、SNSしかり、リモートワークしかり、家の中で生活の全てが完結してしまう可能性が十二分にある。そうなると頭で考えることが世界の全てとなり、実体を持たぬまま放蕩するように考えが広がっていってしまう。

 だからこそ実地に足を運んで、体全体で感じたことを、言葉に記していくのである。東日本大震災のような、前後で世界が変わってしまうような大きな出来事に際しては、そうした骨身を備えた堅牢な言葉が必要なのだ。

 私は、阪神・淡路大震災も東日本大震災も、熊本地震も能登半島地震も経験したことがなく、災害の渦中にいた経験はほとんどない。しかし、災害は自然によって起きるだけではない。世界各国で行われている戦争を始めとして、人間の手による災害は各地で起きており、それらは決して他人事ではない。

 ゆえに、骨と肉のある言葉で考え、語ることができるようになりたい。佐野氏の不遜な態度は気に入らないが、現場主義の在り方は参考になるし、あるいは和合氏の冷静と熱を両立した屹立した態度も見習いたい。「人のこころのなかに育つ言葉の木(詩の樹の下で)」があることを、心に根差したい次第だ。