
幕が上がる
平田オリザ
講談社文庫
感想
先日、劇団四季の「アナと雪の女王」を観に行った。「生まれて初めて」を歌う俳優さんの声が、衒いのない、まっすぐな歓びに満ちていて、もうわけもわからず、ただ涙が流れ続けた。自分でも驚くほどぼろぼろ泣いた。それはつまり「感動」ということなのだろうが、一言で片付けるにはあまりにも惜しい感慨があった。
「私たちは、舞台の上でなら、どこまででも行ける。(中略)でも、私たちは、それでもやっぱり、宇宙の端にはたどり着けない。(pp.329-330)」舞台を創り上げる演者や監督だけでなく、観客もまたそうなのだろう。本作「幕が上がる / 平田オリザ(講談社文庫)」を読んでそう思う。
後にはこう続く。「どこまでも行けるから、だから私は不安なんだ。その不安だけが現実だ。誰か、他人の作ったちっぽけな『現実』なんて、私たちの現実じゃない。(p.330)」そう独白しながら紡ぎ上げる舞台には、虚構を抱えつつも屹立する「現実」があるのだ。
劇団四季に話を戻す。
「生まれて初めて自由だから!今日は!」と、舞台という「現実」から響く歌声は、それが現実であるからこそ真実性を帯びる。一方で、舞台上であるからこそ、その虚構、「宇宙の端にはたどり着けない」ことも思い知る。
ここで思い浮かぶのは、近松門左衛門の言葉だ。
彼は「虚実皮膜」という言葉で、真の芸術は虚構と現実の狭間にあると提唱した。劇団四季で泣いた理由も、「幕が上がる」で泣いた理由も、ここにある。舞台上で入れ代わり立ちかわり現れる虚構と現実が、観客たる私に数々の体験を想起させる。結果としてそれは、言いようのない実感になり、その尊さに涙するのである。涙するしか、ないのである。
と、ここまでは劇団四季での体験に絡めて、「幕が上がる」について触れてきたが、本作は単体でも素晴らしい。
魅力はいくらでも挙げられるが、何よりも好きなのは、主人公高橋さおりの思考が、徐々に、されど確実に形作られていく過程である。分からないことを分からないまま受け止めて表現しようとするまっすぐさ。「にじみ出てくるものがあるって信じ(p.157)」ながら戯曲を書くひたむきな姿勢が、作品全体に通底しているため、始終気持ち良く読むことができた。
また、そんな主人公の成長が、「守破離」の形をとっていることも、良い意味で癖がなく、心地よい読み味の一助となっている。吉岡先生に教えられたことを実践し、応用し、やがて先生が去り、ひとりの自立した演出家・舞台監督へと成長を遂げる。様々な人を巻き込んで進んでいく姿は、物語を引っ張る頼もしさでもあり、引っかかることなく一気に読ませてくれる。
そしてさらに、彼女の歩んできた道のりが、自身の創り上げた舞台「銀河鉄道の夜」のジョバンニにぴったり重なる瞬間のカタルシス! いわんや、過不足ない自己表現の形であり、それを自覚した「あ」という言葉の、霧が晴れるような爽快さたるや。
演劇部に関係のないシーン、つまり日常の何気ないあれこれをも舞台に引き上げ、誠心誠意表現することはまさに、人生をまるっと肯うことに他ならない。虚実皮膜に現れる芸術が、主人公の成長とともに肯定されているならもう、涙を流すしかないのだ。
こうした物語が、無理のない口語体で書かれているのも良かった。「だから、でも(p.34)」と続くセリフがあるように、書き言葉としては崩れているけれども、実際の会話に近いので、自分自身に引きつけて読みやすい。本作の言葉で表すなら「叫ぶ系」でなく、「静か系」だから、登場人物たちの種々様々な感情も、くっきりとした輪郭を帯びるのだろう。
「生まれて初めて」の歌が終わるや否や、私は心からの賛辞を込めて拍手を送った。もはやそれは、送ったというより「送らされた」というほうが実態に近いかもしれない。何を考えるでもなく、自然と、手が拍手していたのである。
本作を読み終えたときもまた、同様の気持ちだった。カフェで読んでいたから実際はできなかったけど、心のなかでは拍手喝采で、しばらく余韻に浸っていた。そしてこの感想文を書いており、気持ちの整理がついたら、解説を読もうと思う。
今年の読書のテーマは舞台芸術になるかもしれない。そのくらい、劇団四季と「幕が上がる」の体験は凄まじいものだった。ミュージカルってすごい、演劇ってすごい、舞台ってすごい。今はもう、すごいしか、言えない。